月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

ゆきのいろ

そのシロクマは、迷っている。「もう少し北か、いや西か、その間ぐらいかもしれない」そんな風に、においや景色の記憶を頼りに、シロクマはふるさとの北極へ戻ろうとしている。

半年前、溶け出した氷が決定的な音を立てて割れ、シロクマを乗せたまま海を漂い始めた。割れなかったほうの氷に乗っていた動物たちは、なす術もなく心配そうにこちらを見つめている。シロクマが躊躇したのもいけなかった。あのとき少し冷たいのを我慢して海に飛び込んでいれば。
気づいたときには四方を海に囲まれて、シロクマは数平方メートルの頼りない一枚の氷の上にたたずんでいた。

何とかして、あの場所に戻りたい。それからシロクマは、寝る間も惜しみ、少ない食料にも耐えながら、帰路を探し続けた。方角も分からず、何の保証もないままひとりで何かを探し続けるというのは、想像以上につらいことだ。ときに寂しさを紛らすために発した「困ったなあ」という声は、シロクマ自身の孤独感を助長させた。

道中、親切なトドがいた。意地悪なクジラもいたし、無口なイワシもいた。いろいろな出会いを経て、どんなルートを通ったのかもいくつの夜を越えたのかも分からぬまま、それでもたしかにシロクマはもう少しで我が家にたどり着けそうだ。風の冷たさになじみがあるような気がする。

しかし、まだそこではない。シロクマは目を閉じ、鼻をひくつかせる。その場の温度や湿度やにおいを感じとる。それから今度は目を開け、手元の雪をいじってみる。やはり違うようだ。微妙に雪の色が違う。生まれ育ったものにしか分からない、雪の色の違いがある。数字に色がついて見える人間のように、赤外線さえ見通す蝶のように、シロクマには雪の色の違いが分かる。

そのシロクマは、今もさまよっている。もし今度、あなたがどこか寒い場所を訪ねたとき、迷っているシロクマがいたら、道を教えてあげてほしい。彼を助けてあげてほしい。ぼくからのお願いだ。

ワンモアタイム

たしかにあの店のラーメンは、もう一度食べたかった。

「自分たちのルーツをたどるツアー」と題し、昔からの男友達三人で、故郷を旅行者気分で回ることにした。
「30歳になる前に何かしよう」とグループLINEで盛り上がった話の流れだ。久しぶりに、自分たちが育った場所を訪れるのもいいのではないかということに落ち着いた。

僕たちのような、児童養護施設で育ったものにとって、生まれ故郷はあるようでない。少なくとも、就職して他の街に出て行けば、帰る場所はなくなる。僕たちは成人式にも行かなかったから、高校を卒業して以来もう10年以上訪れていない町だ。それで別にかまわないと思っていた。僕はこの町を必要としていない。世話にはなったが、それは他の場所でもきっと同じことだ。そして僕が必要としていないように、この町も僕を必要としてはいないだろう。そうして僕は、本音と強がりの境目さえ見失ったまま、都会に暮らし続けた。

そんな僕に、感傷という言葉は用意されていない。だけど、月並みな言い方にはなるが「変わったな」と感じた。変わってほしくないのは、その場所にとどまらなかった者のエゴに過ぎないのに、僕はかつて飽き果て、捨て去りたかったあの風景の再現を心のどこかで求めていた。

中でも思い出深いのは、あのラーメン屋。施設の寮から歩いて5分ほどのところにある、個人経営の店だ。小学生当時、大人と一緒ではなく、友達同士でラーメンを食べて店を出てくる中学生の姿がやけに大人に見えた。施設では、中学生からおこづかいがもらえる。自分たちも早くおこづかいをもらって、自分たちだけでラーメンを食べたいと思っていた。そして、はじめて食べたそのラーメンは、少しコショウが効き過ぎていて、チャーシューがとろけるようだった。

あのラーメンは、たしかに食べたかった。大将のハチマキは、棺とともに燃えただろうか。

店の前には、あの暖簾だけが今でもかかっていた。

EXIT

世界には上り坂と下り坂、どちらが多い?

そんななぞなぞがある。どちらも同じ、が正解だ。どちらかから下れば、どちらかからは上ることになるから。入口と出口も同じような関係だろう。どこかに入っては、必ず出て行く、その繰り返し。
だけど、僕の人生に限って言えば、出て行くもののほうが多い気がする。僕が出て行くのか、それとも出て行かれるのか、それはまだよくわからない。

進学、友人、恋愛、理想、希望、夢・・・。その世界に入っていくときには、「そこ」は必ず光り輝いている。何かが起きるんじゃないか。魔法がかかり、奇跡が起きる。そして、こんな僕をどこか別の場所へ導いてくれるんじゃないかと、胸を高鳴らせたものだ。

だけど、いつの間にか光は失せて、諦めや後悔や挫折や無念だけを残して、僕はそこからいなくなる。後ろを振り返れば、僕の歩んできた軌跡が見える。僕の姿だけがない。目を凝らせば、虹の橋を渡ろうとしたかつての僕がおぼろげに見える。だから僕は、振り返ることをやめた。無残な今の姿と、傷つかないままの僕を並べていることに耐えられないから。

「おまえは生真面目すぎるんだよ」友人からそんな風に言われたこともある。僕は誰かに憧れられたことはない。その代わりに、憧れたこともない。だけど、屈託なく今の連続を楽しみ続けている彼らを見ていると、こんな生き方もあったのかもしれないと思えてくる。そして知らず知らずのうちに、僕はまた、入口だけを避けて、出口を求めて進むようになる。

「君は変わらないね」そんな言葉を何度も聞いた。変わりたいともがき、結局いつも同じ場所に還ってくる人間に、これほど残酷な言葉もないのに。もう振り返っても、俯きがちにため息を漏らす僕の姿しか見えない。何も言えずに立ち尽くす僕の姿しか写らない。

僕が歩んできた、これまでの道はなんだ。自分だけの場所を求めて歩いてきた僕は、どうしても僕自身にしかたどり着けなかった。

君は100%

摘むのは老爺の、選り分けるのは老婆の、食べるのは幼子の役目。それがバレンシアの掟、オレンジ農家の伝統。世界でいちばん青くて高い空の下、その丘の上で、何十年も前の初恋を今に連れて来た風に吹かれ、鼻歌交じりの老爺は脚立にのぼり、ひとつひとつ丁寧にオレンジを摘んでいく。下には、その風が連れて来た彼女―老婆が座っている。老婆は、旦那の次に長く連れ添っている手作りのイスに腰掛け、老爺が摘んだオレンジを三つのカゴに選り分けていく。ひとつはそのまま市場に並べるもの、ひとつは加糖オレンジジュースの一部となるべくプレスされるもの、もうひとつは果汁100%ジュースになるべくプレスされるもの。

見た目のきれいなオレンジが市場に並び、それ以外のものが適当に選り分けられるわけではない。バレンシアの目利きたちは、食べておいしいオレンジと、果汁30%ジュースにしておいしいオレンジと、果汁100%ジュースにしてこそおいしいオレンジをちゃんと知っている。いわんや農家をや、だ。

老婆は要領よくオレンジを仕分けていく。時々オレンジの声も聞こえてくる。市場に並びたいだとか、100%のほうがいいだとか。オレンジたちの声を聞いて考え直すこともあれば、その声を黙殺し、そのまま仕分けに取り組み続けるときもある。
前傾姿勢でオレンジを選り分け続けるのは楽な仕事ではない。だから、しばしば立ち上がり、ポマードで髪を固めたいつかの彼と、街で一番目立つ口紅を塗ったいつかの自分が手をつないで歩いたときのことを、深呼吸とともに思い出す。

妙に静かになった下の様子に気付いた老爺は「おいおい、サボらんでくれよ」とウインクを飛ばす。
「サボってなんかないわ」と彼だけのためのウインク。このウインクが、ふたりをここまで繋いできた。彼らは何も変わってはいない。ただ世界が変わっただけだ。

バレンシアは今日も暑く、そしてオレンジはどこまでも瑞々しい。

 

瞳の奥をのぞかせて

今は夜です。貴方は仕事が終わった頃かもしれない。お疲れさま。

あの日、貴方が眠ったあと、貴方の背中に文字を書いていました。ネイルをしていなかったことに気付いてくれなかった私の指で。きっと、私がいつも貴方の後に眠りについていたことも知らないのでしょうね。

これだけの時間を過ごしてきて、貴方をわかったと感じたことは一度もなかった。貴方の傍にいたいのに、貴方がいると安心するのに、貴方の隣ではじめて私は私でいられるのに。
あなたはどうだっただろうと考える。そのたび、貴方はきっと、私のことをよくわかってくれていたと思う。私の好きなこと、好きではないこと。楽しいことと楽しくないこと。嬉しいこと、気持ちいいこと。ぜんぶお見通し。不機嫌になれば、すぐに私を笑わせてくれるから、私はとても嬉しくなって、家に帰っていつもひとりで泣いていたの。

貴方が隣で何を見ているのか、私はいつも知りたかった。私のいちばん傍にいる貴方を、私がわかりたかった。貴方が私をわかってくれているように。だけど、私と貴方が同じ景色を共有していたことは一度もなかったような気がする。
貴方に見つめられても、見つめられているのは私ではなくて、私のもっと奥の、私も知らない部分なのではないかと、私の知らない私を知っている貴方がときどき、とても怖くなった。

私は貴方に、どう映っていたの。私と、私と過ごした日々と、私と貴方の思い出と、あなたは忘れないでいてくれますか。

私は貴方の笑顔を忘れません。貴方が贈ってくれた薔薇の色を忘れません。貴方と過ごした時間の全てを忘れません。

だから、さようなら。

 

彼女は、真っ白な便せんに青いインクで綴ったこの手紙をていねいに読み直し、最後の行まで読み終えると、ゆっくり引き裂いて、それからそっと、パチパチと音をたてて燃える暖炉の火にくべた。手紙は女の涙のように、ホロリホロリと焼け崩れていった。

アニマロッサ

毎年この時期は、SNSがざわめき、テレビ画面が色めく。去年、部活の先輩たちが派手な着物やドレスの格好の写真をSNSに大量にアップし、ハタチになったことの感想や意気込みや、親への感謝をつづっていたことには少し閉口したし、ニュース映像に映されるどこかの荒れた成人式の様子には、この国の終わりを感じたものだけど、それでも実際に自分がハタチを迎えるとなると、少し感慨深い。「こんな大人に、あんな人になりたい」という思いがこみ上げてくる。わたしは文字が苦手だし、なんとなくの感覚でしかないけれど。

姿見に映る、真っ赤なドレスを着たわたしの姿。がんばって2キロやせたおかげで、2ヶ月前よりも、ドレスのシルエットが美しくわたしの体を形どってくれる。これは大切なドレス。祖母、母、私と受け継がれてきた、アニマロッサという名のドレスだ。
イタリア語で「赤い魂」という意味だと教えてくれた祖母が、かつてわたしほどの年齢だったときにそのドレスを着た写真にも艶やかさがあったが、本物を目の前にし、そして手にしたときに、その色味、質感、徹底的に普遍の美を追及してつくられたそのシルエットに息を呑んだ。わたしにとって、何十年と手入れされ、受け継がれ、ひとりの女性の美を引き出すために存在し続けてきたこのドレスを着るということが、成人になる自分への責任だった。このドレスを着ることの重みと比べれば、市長の話や友人の改まった決意表明や、テレビの大人たちが語るわたしたちへの期待なんて、さほど重要ではなかった。

アニマロッサには、シンプルなパールのネックレスが良いと思う。彼氏も「よく似合うよ」と言って、わたしをゆっくり抱きしめてくれた。弟は、チャイナドレスのコスプレみたいだとからかってきたけれど、何となくその日は一日、落ち着きがなかった。

家の外に出ると、冷たい風がドレス越しに身に凍みた。「いってきます」は、誰に向かって言ったのだろう。

この胸を、愛を射よ

「歳をとったキューピッドはキューピッドなのか。多くの哲学者たちが挑んでは、その度に議論が紛糾してきた難問です。今回、FGN放送局では、数名のキューピッドのみなさんにお越しいただき、実際にこの問題についての所見をうかがうことに成功しました。どうぞ、番組を最後までご覧いただきながら、#fnncupidにてあなたのご意見をリアルタイ・・・」
彼はタバコを吸うためにベランダへ出た。胸ポケットからキャスターの8mmを取り出して火を点ける。そして、キューピッドねぇ、と考えながら煙を吐き出す。アパートの2階から見下ろす景色は、大して良いものではない。それでも見下ろすことに意味がある、と彼は思っている。

キューピッドがいるとしたら、俺のキューピッドはどんなヘマをやらかしたんだか。

しかし、実際にいるのだ。ベランダからテレビのある六畳間に戻ってきた彼は、すりガラス越しに、加工された声で議論を交わす5名のキューピッドを見つめる。正面からはわからないが、後ろから映された彼らの外見を見るかぎり、たしかに彼らは本物のキューピッドのようだ。彼には本物と偽者のラインなどわからないが、偽者にしては彼らはあまりにキューピッドすぎる。今映っている彼らはやはり、本物のキューピッドでなければならない。

本物のキューピッドは言う。年をとってもキューピッドであることに変わりはない。むしろ、鍛錬と経験をつんだ弓矢の技術によって、若者よりもよっぽどキューピッドらしい仕事ぶりを発揮できる、云々かんぬん。
別の本物のキューピッドは、右手の人差し指をあげて反対意見を表明する。老いぼれた姿のキューピッドなど、見るに堪えないし、そう呼びたくもない。ベテランの経験は認めるが、それならそれ相応の別の呼び名があれば良いではないか、云々かんぬん。

彼は、座卓の上に置き去りにされたいつかの指輪を見つめてからテレビを消し、タバコを買いにコンビニへ出かけた。