月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

24000字小説 上(ヘルプ・ザ・プリンス )

ヘルプ・ザ・プリンス(上)

 

僕は、白馬の王子は信じない。そんなの非現実的すぎるし、そもそも時代遅れだ。現代を生きる女の子は、マセラティに乗ったIT企業の社長を心待ちにしている。

 

でも、シマウマに乗ったお姫様はどうだろう。僕は、こっちは何だか信じてしまう。白馬よりもシマウマのほうが庶民的な感じがするし、姫なのに気取ってない感じも好感が持てる。それに、白馬はなかなかお目にかかれないけどシマウマなら動物園でたくさん見られる・・・。

いや、正直に言ってしまおう。僕はシマウマに乗ったお姫様を信じざるを得ない。なぜなら、僕はシマウマに乗ったお姫様と実際に出会ったからだ。

 

当時、僕は高校2年生だった。僕の勉強の成績は中の上。特に仲の良い友人はいなかったけど、クラスのみんなとはいさかいなく過ごしていた。部活には入っていなかったけど、足は速かった。だから体育祭なんかではリレーの選手になった。アンカーになるほどではないけど、第一走者を担当して5人中最低でも2位以内で次の走者にバトンを受け渡すぐらいの実力を持っていた。

普段は特に目立たない僕のそんな姿を見て、ちょっとかっこいいかもと思ってくれる女の子もいたようだった。中学生のときもそうだったけど、体育祭が終わった9月10月ぐらいから、クラスの女の子が1学期よりも僕に話しかけてくれるようになるのが常だった。

でも、それも12月ごろには終わっていた。端的に言うと、「愛想尽きた」というところだと思う。

僕は、女の子と話すのがものすごく苦手なのだ。別に女性に対して悪意を抱いているわけではないし、下心を丸出しにしているわけでもない。ただただ苦手なのだ。

平気な顔をして女の子と話している友人を見ていると、彼のこれまでの人生の一部始終を見せてほしくなる。僕と彼はどこまで同じような道を辿って、どこから別の方向へ進んだのだろう。

なんで普通にできないのか(高2にもなって)、と言われることもあるが、僕に言わせれば女の子といて普通にしていることのほうが異常だと思う。それは理屈ではない。ただ、女の子と対していると、全てを見透かされているような、相手のほうが自分よりもはるかに多くのことを知っていて経験も積んでいる百戦錬磨の存在に見えてくるのだ。生物として何ランクも上の相手に、僕には為す術がない。

そんなわけで、僕に話しかけてくれた心優しい彼女たちも、僕に悪意がないことは承知のうえで(だと信じたい)「愛想尽きた」のだと思う。

 だから誰かとお付き合いしたこともなかったが、日々をそれなりに楽しく過ごしていた。不満足でも欲求不満でもない、まぁ満足な高校生活。もっと女の子と自然に話せるようになるに越したことはないけど努力をしようとは思わない、そんな感じだ。

 

クラスのみんなが互いの名前を大体覚えた頃に、ゴールデンウィークがある。その年のゴールデンウィークは、家族で長崎に行った。父、母、僕よりひとつ年下の妹、僕。長崎旅行は、母が熱烈な福山雅治のファンで、その生まれ故郷を今年こそ訪れさせてほしいという母たっての希望だった。母は福山雅治にゆかりのあるお店や学校を訪ねては大興奮していた。他の3人はハウステンボスを楽しんだ。

そうして平凡な家族の平凡なゴールデンウィークが終わり、また学校が始まる。

 

いつも通り、7時に起きて8時10分に家を出る。学校には歩いて15分で着く。ゴールデンウィーク明けの登校日は、5月らしい素晴らしい五月晴れの朝だった。

家を出てまず右に曲がり、3分ほど歩いて左に曲がり、次の交差点を右に曲がって5分まっすぐ歩き、タバコの自動販売機がある角を左に曲がって最後にもう一度左に折れると学校に着く。その、タバコの自動販売機の角のところで、僕は彼女と遭遇した。

 

僕は角に来るまで彼女の存在に気がつかなかった。その日提出になっている三者面談に関する紙を家に忘れてきたような気がしてカバンを探っていたのだ。

まさに、鉢合わせという感じだった。角を曲がるというときに顔を上げると、シマウマに跨った彼女がいた。初めは、(当然)何かの間違いだと思った。カバンの中をずっと見ていたから顔を上げたときに太陽光に目がやられて、一時的に景色がモノクロになっているのだと思った。でも、彼女が何かに跨っていることに間違いはなかったし、タバコの自動販売機の横にあるコカ・コーラの自動販売機が赤く見えている以上、「黒色の髪を肩まで下ろして僕の高校の制服を着た女の子がシマウマに跨っている」という事実はゆるぎないものとなった。

 

「おはようございます」と彼女はシマウマの上から会釈しながら静かに言った。内緒話をしているときのようなトーンだったが、はっきり聞こえた。

「あ、おはよう、ございます」

女の子に話しかけられるといつも僕はこんな風になるが、今回のケースがそれと同じだとはどうも認めたくなかった。

「ここの高校の方ですか?」と彼女は尋ねてきた。

「あ、はい。そうです」

彼女はニッコリ笑って「良かった」と言った。

「わたし、今日この高校に転校してきたんです。どこからどう入って、どうしたらいいかよくわからなくて。とりあえず職員室まで来るように言われたんですけど、この子をどうしたらいいかわからないし」

そう言って、彼女はシマウマのたてがみをなでた。シマウマはニヤリと笑った。この女は俺のもんだぜと得意がっているような不快な笑みだった。

「なるほど。わかりました。じゃあ、い、一緒に行きましょうか」

精一杯で僕は言い終えた。僕からすれば、一緒に行きましょうかだなんてセリフはデートに誘っているも同然なのだ。

「ありがとうございます」と彼女はまた微笑んだ。シマウマの後ろ足で蹴飛ばされたかと思うほど威力のある素晴らしい微笑みだった。

 

シマウマは静かに歩いた。シマウマが一般に静かに歩くのか、このシマウマが特別な訓練か何かのおかげで静かに歩くのかは、僕には判断しかねた。彼女に尋ねようかと思ったけど、初対面の女の子にこちらから話しかけるなんてことはできなかった。

タバコの自動販売機の角を曲がったのだから、あとはもう一度左に折れて門をくぐりさえすれば学校だ。門を入って斜め左の新校舎の1階に職員室がある。2分もあれば職員室までたどり着けるが、初めて女の子と並んで歩いた(実際に歩いていたのはシマウマだが)僕は心臓がドキドキしっぱなしで、登校時間全体ぐらいに感じられた。このシマウマがもっとパカパカ歩いてくれれば、僕の鼓動が聞こえる恐れもなくなるんだけど。

 

下駄箱の前で彼女には待っててもらって、僕が職員室で事情を説明することにした。

シマウマに乗った転校生の女の子、どうしたらいいでしょうか。

 

 

「転校生の森野さんだ」

「森野リアです。よろしくおねがいします」

彼女は僕のクラスに入った。ドラマみたいだ。道で偶然出会った女の子は自分のクラスの転校生。そしてふたりは恋に落ちて・・・。

レトロな展開だ。ありえない。第一、シマウマに乗った女の子なんて僕のキャパシティを超えている。左側に学校のグラウンドが見える窓際の一番後ろの席で、彼女の自己紹介を聞きながらそんなことを考えていた。

「じゃあ、森野さん。あそこが森野さんの席だから。窓際から二番目の一番後ろの席」

やれやれ。

 

彼女は僕の隣にやってきて、「あっ」という顔をして微笑んだ。シマウマと正面衝突したんじゃないかと思うほど破壊力のある天使的微笑みだった。

「まさか、ウチのクラスだったなんて。あ、笠井高平です」

「笠井くんね。よろしくね」

これまでのところは他人と比べようもないけれど(だから見せてほしかった)、この瞬間から僕が他人とは違う方向に人生を歩み始めたことは確信を持って言える。

 

「じゃあ、後ろから三者面談の紙を回してくれぇ」

結局、そのプリントは忘れていなかった。カバンの中のファイルにちゃんと挟んであった。ファイルを取り出すために机の右側に掛けてあるカバンをごそごそ探していると、彼女は言った。

「私とじゃんけんして勝ったら、笠井くんの彼女になってあげます」

寒い冬の朝に、吐く息が白いことを確かめるためにハァーっと息を吐くときみたいな声で、僕の耳元でたしかに彼女はそう言った。何だか言っている意味がよく分からなくて、僕は聞き返した。

「え?」

とりあえず、三者面談の紙を前に回す。フフフと笑って、「また後で言うわ」と言って彼女は前に向き直った。

もちろん、彼女の言ったことは聞き取れた。聞き取った言葉の内容も理解した。僕の解釈が正しければ、彼女は「森野リアと笠井高平がじゃんけんという遊戯をして、笠井高平がその遊戯において森野リアに勝利することができれば(笠井高平が勝利する方法は3パターンあり、勝利できない方法も3パターンある)、森野リアは笠井高平の恋人になる」と言ったのだ。

しかし、その意味を実際的に飲み込むことは不可能だった。たしかに僕は恋人を持ったことがないし、誰かに告白したこともされたこともない。だけど、誰かと誰かの交際がじゃんけんで、しかも条件提示のような形で相手から申し出られて始まるというケースは、ゼロではないにせよ、ハイパーレアだということぐらいは実感としてあった。

 

 この日は半日で授業が終わり、僕は自然な流れで森野さんと一緒に帰ることになった。

門を出ると、シマウマがおとなしく待っていた。半日ここで待っていたんだろうか。こういうのって、警察に通報されたりしないんだろうか。トイレはどうするんだろう、ごはんはいらないのかな。彼女がシマウマに手綱をつけている間に、僕はいろいろ心配した。

「おまたせしました」と言って、彼女はシマウマを引いて歩いた。

 

無言の時間。女の子と一緒に登校したのも今日が初めてだし、女の子と一緒に下校するのもこれが初めてだ。でも、他にも初めてのことが今日は多すぎる。何から片付けたらいいのか分からなかったけど、とりあえずシマウマについて質問したかった。

「あのさ」と口を開いた。

「ん?」という顔をして彼女は僕を見た。僕は身長が172.4センチあって(先月の身体測定の数値だ。でも、去年は173.1センチだったし、絶対に今年の数値が間違っていると思う)、それを考えると彼女の身長は160センチぐらいだった。「なんですか?」と言って、彼女は僕を見上げながら、ニコッと笑った。シマウマの群れの大移動に巻き込まれたんじゃないかというぐらい衝撃的な陽だまりの微笑みだった。

「あの、そのシマウマって、なんていう名前なんですか」

「あー、そのことね」という顔をして、彼女は言った。

「この子? この子の名前はマリオ」

「マリオ?」

「そう。マリオ。知りませんか? 任天堂の。コインコインコイーンってジャンプするの」

そう言って彼女はくすくす笑った。シマウマが空から降ってきたんじゃないかと思うほど天変地異的な笑顔だった。

「いや、もちろん。知ってますけど。」

「私、マリオのゲームが大好きなんです。マリオって、いろんなシリーズがありますよね。マリオブラザーズもおもしろいし、テニスとかゴルフとかカートとか。私、全部持ってるんです。そうだ、今度遊びに来てください。一緒に遊びましょう。私、家に遊び相手いないからいつもひとりでゲームしてるんです」

そう言って一呼吸置いて、「あ、そうだ」という顔をして続けた。

「さっきの続き。私とじゃんけんして、笠井くんが勝ったら、私が彼女になってあげます」

 

出た。なんなんだろう。わけがわからない。でも、二度も同じことを聞いておいて今さら呆けていてはなんだか男が廃るような気がして、僕は「う、うん。わかった」と答えた(後日そのことを友人に話すと、「だまされてるとかからかわれてるとは思わなかったのか」と言われた。経験が浅すぎて、知識がなさすぎて、そんなことは考え付かなかった)。

 

「私、笠井くんに勝ってほしいんです。だから、笠井くんはパーを出してくれますか?私はグーを出します」

そう言ってから彼女は「いきますよー」と言った。

「じゃん、けん、ぽん!」

僕はパーを出し、彼女はグーを出した。

「わ!」と言って、目を輝かせ、彼女はそのグーの手を開いて、そのまま僕のパーの手を握った。

「今から、私は笠井くんの彼女。笠井くんは私の彼氏。よろしくね」

そう言ってまた微笑んだ。シマウマが食物連鎖の頂点に君臨するぐらい革命的な微笑みだった。

僕はこの日、生まれて初めてシマウマと道で遭遇して、生まれて初めて女の子と登校して、生まれて初めて女の子と下校して、生まれて初めて恋人ができて、生まれて初めて女の子と手をつないで、生まれて初めて眠れない夜を経験した。

 

 

森野さんは、その大胆さとは裏腹に物静かでおとなしい女の子だった。シマウマに乗っているという強烈な印象や、マリオのゲームで遊ぼうという大胆な誘いのせいで見誤ったが、学校では「ただの隣の席の子」だった。人見知りな性格のようで、積極的にクラスの友だちをつくりにいったりもしなかった。部活にも入らなかったようだ。それに、放課後は何だか自分の用事が忙しいらしい。

 

彼女の家がどこにあるのかまだ知らなかったけど、タバコの自動販売機の前で8時15分に集合。それからふたりでゆっくり登校した。僕は10分早く家を出ることになったわけだ。家族にはまだ森野さんのことは伝えていなかった。

女の子の転校生が来たことは言っておいたけど、席が隣であることやシマウマに乗っていることは言わないでいた(僕としては、それほど大きくもないこの町で、シマウマに乗った女子高生についての噂が立たないことが不思議でしょうがなかった)。だから、僕の登校時間の切り上げについては、最近学校が遅刻者に厳しくて、始業5分前に学校に入っていない生徒も時々説教を食らうんだと親には説明した。

 

森野さんと並んで歩くのは慣れなかった。シマウマには思ったよりもすんなりと適応できたし、雨の日や森野さんの気分によってシマウマに乗っていないときもあった。何に慣れないかといえば、それはやはり異性である。いくら恋人だといっても、僕にとっては降って湧いた恋人であり、恋愛の前段階もなければ覚悟もなく経験もなかったから、何を話したらいいのか、どんな風に呼吸をしたらいいのか(息が荒くなってないかな、鼻息がうるさくないかな)、どんな歩幅で歩いたらいいのか、不用意に森野さんを傷つけてしまわないか、全てが僕の不安要因であり、僕はいつも緊張していた。

 

森野さんはかわいかった。自分の恋人だからというのではなく、一般論的にかわいい女の子だった。テレビのCMみたいなサラサラではないけど、肩まで下ろした黒髪は健康的で清潔な印象を与えた。瞳も髪と同じように真っ黒で大きかった。視野に入った全ての光を吸い込み、その瞳に映る全ての者を魅了するような底なしの瞳だった。鼻も口も小さかった。これは、僕が女の子を見慣れていないからそう感じるのかもしれないけど、この人は親に大事に上品に育てられたんだなと思わせる鼻と口だった。

 

学校生活について言えば、昼ごはんは別々にそれぞれの友達同士で食べた。教室移動は一緒にすることが多かった。転校当初に慣れない教室移動を案内してあげているうちに、何となく教室移動は一緒にするようになったのだ。

周りのみんなが僕と森野さんの関係を知っているのか知らないのか、僕にはわからなかった。とにかく、僕たちが一緒に登校したり下校したり教室移動したりしている姿は友達にも何度か目撃されているはずだが、少なくとも僕は誰からもそのことについて触れられなかった。僕としては少し物足りないような気もしたけど、圧倒的な美少女を恋人に持つという夢と奇跡のダブルパンチ的現実は口に出した途端に崩れ去って今までどおりの生活に戻ってしまうような気がして、僕も何も言わないでいた。浦島太郎を僕が演じる必要はない。

 

一ヶ月もすると、森野さんとの登下校にも慣れてきた。まだデートをしたことはなかったけど(彼女は学校の時間以外は何かに忙しくしていた)、登下校の時間(週当たり10分×10回)と教室移動の時間(週当たり5分×9回)が積み重なって、僕は一ヶ月の間に10時間近く森野さんとふたりの時間を過ごしていた。これはすごいことだった。僕の学校で森野さんとこんなに密接に関係している人はまずいないと思うし、他人との比較よりも僕史上一番の快挙だった。

僕たちが出会ってちょうど一ヶ月の6月7日、僕はこう切り出した。

「白馬の王子は聞いたことがあるけど、シマウマのお姫様は聞いたことなかったです」

慣れたといってもそれは僕の中での話であって、「森野さん」と呼んでいたし、話しかけるときは敬語だった(森野さんは敬語はやめてと言っていたが、努力しますとだけ僕は答えた)。

森野さんは「うーん」という顔をして言葉を探していた。

森野さんは考え事をするときに、「うーん」という顔をしながら世界一の瞳で右上を見る癖があった。そして、右手の人差し指(右手がふさがっていたら左手のときもあったけど)をあごに当てて、「うーん」という風に唇を反らした。その顔はシマウマの比喩も追いつかないほどに地球規格でチャーミングだったけど、そのときに唇の左下にある小さなほくろが見えるのが銀河規格でかわいかった。

そのときもその「うーん」をしてから、口を開いた。

「白馬の王子って、なんかそんなの非現実的すぎるし、そもそも時代遅れよ。現代を生きる女の子は、マセラティに乗ったIT企業の社長を心待ちにしているものよ」

「そうなん、だ」(敬語を抑えた僕の少しの頑張り)

「馬に乗ってる人なんて、今じゃほとんどいないでしょう。もちろん、趣味が乗馬の人とか、競馬の騎手の人とか、ポロをやってる人とかはいるけど。一般的じゃないでしょ?」

それに、と付け足した。

「今じゃ女の子も口開けて待ってばっかりいるわけじゃないから。そういうの、男権主義っていって女の子から大バッシング受けるわよ。笠井くん、悪気はなくてもそういうこと言っちゃいそうだから、気をつけてね。白馬の王子に限らずね」

 

私、笠井くんのこと大好きだから、他の人から良くない印象持たれるときっと悲しいから。そう言って、じゃあまた明日ねと言いながら家に帰っていった。

最後の一文(特に前半)が脳内にリフレインして、僕は晩ごはんを食べているときに数年ぶりの鼻血を出した。

 

 

初めてのデートは、6月の22日、金曜日だった。その日は4日連続で雨が降ったあとの晴天で、晴れはしたものの湿度が高くて、気持ちのいい晴れ方ではなかった。その日の放課後、カラオケに行った。その日は森野さんの用事がないらしく、もちろん僕は毎日暇だから、僕たち史上初めてのデートをすることになった。その日は「マリオ」不在の日だった。

カラオケに行きたいと言ったのは森野さんだった。まだ行ったことがなくて行ってみたいのだと言った。僕も3、4年前に家族と行って以来久しぶりのカラオケで、システムとか会員カードとか、ほとんど未知の領域であることは森野さんと変わりはなかったけど、初デートで弱腰でいるのも嫌で、ふたつ返事でカラオケに決めた。

 

カラオケの店は、学校から歩いて20分ぐらいのところにあった。小さい路地の一角に建つビルの2階のテナントを使っていた。車通りのほとんどない路地なのに、なぜかビルの前には信号と横断歩道がきちんと設置されていた。

森野さんは、信号は絶対に守る主義だった。それは効率や理屈で測るものではないのだと、森野さんは説明した。

「戦争はしちゃいけないことでしょ。人をいじめるのもダメ。道を歩く女の子のスカートをめくるのもダメ。そういうのって、根本的にしてはいけないことだと思うの。性質と言い換えてもいいかもしれない。信号を破ってはいけないのもそれと同じ」

そう言った。スカートの件に関しては、実際的な話だけが問題になるのか想像することも問題になるのか、僕はその点も聞いてみたかったが、何度も言うように、不用意に森野さんを怒らせてしまったり失望させてしまうのは避けたかったから、ただなるほどとうなずいていた。

 

僕たちにあてがわれたのは狭い個室だった。森野さんはその狭い個室を興味深そうに見回していた。

モニターではアイドルグループが新曲の宣伝をしていて、その横ではマイクが充電されている。テーブルの上には予約機が置いてあり、ルームサービスのメニュー表が広げられている。クリーム色の壁にはなぜか一昔前のポスターが貼ってあり、そこでは田中麗奈がビールを勧めていた。

森野さんは安っぽい革のソファーに座って、そんな諸々をしげしげと眺めている。

僕はそんな森野さんを不思議な気持ちで見ていた。

「デートしよう」と森野さんが直接的な表現で、今日僕を誘ってくれた。

一緒に学校に行ったり学校から帰ったりするうちに、僕たちの距離は縮まっていると僕は感じている。それはたしかだ。

でもこうして、ある意味では強制的に狭い空間にふたりで押し込められると、今まで感じていたのとは違う、また新たな空気が僕たちの間に生まれたような気がした。それは、赤の他人同士である僕と森野さんがより密接になるのを手伝う空気のような感じもしたし、その反対にこれまでの積み重ねを削り取っていって僕たちを疎遠にさせる空気のような感じもした。

「まず笠井くんが歌って!」

その声にハッとした。すぐそこに森野さんの顔がある。なんだか心の奥がむずむずした。

「ボーっと私のほう見て、何考えてたの? 何か変なこと考えてた?」

「いや、ごめん。違う、違います。なんというか・・・、えっと・・・」

「ねぇ、もう一ヶ月経つんだよ。敬語禁止!」

「あ、いや、だから、なんというか・・・」

変な下心があったんじゃない。自分ではそう信じている。何より、森野さんにがっかりしてほしくない。そう思えば思うほど、前を見られなくなる。体中が熱くなる。どうやら、さっき感じていた空気はネガティブなものだったみたいだ。

「きっかけね」

「・・・きっかけ?」

「そう、きっかけ。臆病な人には、きっかけが必要。バンジージャンプなんかでも、1、2、3の掛け声で飛んだりするでしょ?笠井くんみたいな男の子には、きっかけがいるのよ、きっと。覚悟を決めるためにはね。はい、手をひざに置いて。目をつむって」

僕は黙って指示に従った。これは僕でも知っている。目をつむって、そのあとはキスが来る。男が目をつむらせることのほうが多いかもしれないけど、僕にそれはできなかった。でも、これから・・・

 

キスではない衝撃が走った。シマウマから突進されたかと思う衝撃だった。2秒して、左の頬をビンタされたことがわかった。痛い。ジンジンする。驚いて目を開けると、森野さんはニコニコしている。いつもの革命的で天変地異的な笑みだ。

そして突然僕はキスをされた。もう何が何だか分からなかった。森野さんは僕にビンタをした。かなり強烈なビンタをした。そして笑っていた。そして僕が目を開けた3秒後にキスをした。

不意打ちのビンタに思わず涙が出る。森野さんは10秒してから唇を離して、「ずっと私と一緒にいてね?」と言った。

僕はその後しばらく極限の混乱状態にあって、カラオケで僕らが何を歌ったのか、何を話したのか覚えていない。ただ、とにかく初めてのキスは涙の味がしたことだけ明確に記憶できている。

 

その次の記憶はビルを出たところから始まる。

「やだ、マリオ来てたの?」と森野さんは言った。だが、どこにもマリオは見当たらない。すると森野さんは、信号が青であることを確認してから横断歩道に向かった。たしかにそこにマリオがいた。マリオは横断歩道の上に寝転がっていた。マリオは横断歩道に見事に同化していた。数人の通行人は、道に落ちている空き缶ほどの注意も払わずにマリオの横を通り過ぎる。まるで、「もともとそういうものだ」というように。

「ごめんね笠井くん。マリオが私の居場所を嗅ぎつけたみたい。三人で帰ることになるけど、ごめんね」

そう言いながら、森野さんは手綱のついたマリオを連れてこちらに戻ってくる。

「いや、それはいいんだけど」(たしかに僕は言葉遣いに関して吹っ切れたらしい)

「森野さん、なんでシマウマなの?それに、何で他の人は誰もそれを指摘しないんだろう。僕には不思議で仕方ないんだけど。こんなに、その。シマウマに。かわいい女子高生が乗ってるなんてさ」

僕の声は消えかかっていたが、森野さんには届いたらしい。

森野さんは「まぁ!」と言って(たぶん「まぁ!」という表情もしてたんだと思う。僕はうつむいていて、顔を見る余裕なんてなかったけど)、僕の頬にキスをした。ずっとうつむいてもいられなくて少し顔を上げると、マリオがニヤリと笑っていた。しょーもねぇガキが、とあざけているような不快な笑みだった。本当に、森野さんはどうしてこんなヤツといるんだろう。

 

僕らは家に帰りながら話し始めた。

「私はね、財閥の娘よ。しかも大財閥。大金持ちなの、すごいよ、あきれちゃうぐらい。私も詳しく知らないんだけどね。結局、詳しい情報が必要ってことは、それなりに限度があるってことだと思うの。把握しておかなくちゃいけないレベルっていうのはね。うちは、そのレベルじゃない。お金がある。たっぷりある。それでじゅうぶんみたい。そんなおうちなの」

「へぇー」

 

僕は森野さんと出会ってから、いろんな種類の衝撃を受けすぎた。きっと、自分の恋人が天文学的大財閥の令嬢だということには驚く(あるいは疑う)べきなのだろうが、それはそれとしてひとまず聞いておくことしか当時の僕にはできなかった。僕も少しずつ、彼女の領域、あるいはレベルに近づいているのかもしれなかった(それが良い意味を持つのか悪い意味を持つのか、そこが結局よくわからない)。

「だからね、権力なんかもすごいよ」

彼女はニヤリと笑った。彼女のこんな笑い方は初めて見た(やっぱりかわいかった)。

「まぁ何しても大丈夫」

「何しても、って?」

「何でも。たとえば、道で女の人をひっぱたいたらすぐに警察に通報されると思うけど、その辺の処置は私次第ってことね。私がいる場所ではね。私が、警察なんて必要ないって言えば警察は来ないし、このひっぱたいたヤツは懲役50年だーって言えばその人は今日から50年間牢屋から出てこれなくなるわ。なんなら、ここで私をひっぱたいてもいいわよ。私、何も咎めたりしないから。さっきの仕返し」

彼女はニッコリした。彼女の人智を超えた微笑みは、常識外のタイミングで放たれると僕を混乱させる。何を言ってるんだろう。何で僕が森野さんをひっぱたかないといけないんだろう。それに、森野さんはそのあとキスをしてくれた。いや、待てよ。目を開けたときに僕にキスをしてきたのなら、僕はなぜあのときビンタされなければいけなかったんだろう。

わからないこと、想定外のこと、ありえないような本当のこと。僕はその全てを、「思考停止」の下で眠らせておいて、後から余裕のあるときにひとつずつ解凍していくことにした。

 

「たとえ話よ。そんなことしないわよね、笠井くん。本当にされても、ちょっと困っちゃうし。笠井くんのそういうところも好きよ」

普通の神経をした人間なら僕でなくてもそんなことしないと思うが、最近はその普通がわからなくなってきた。だから、森野さんが僕のことを「好きよ」と言ってくれたことだけ嬉しく受け取って他のことは冷凍保存した。

 

ちょうどここで森野さんは左に曲がる。僕はまっすぐだ。家まで送っていこうと思ったけど、森野さんが「ここでいいの」と言った。無理強いすることでもないし、僕らはそこでバイバイした。森野さんがバイバイと手を振ると、現代版デルフォイの神託がその手のひらから溢れているように感じた。