2600字小説(くもびと)
くもびと
デオング氏は焦っていた。それも、けっこう焦っていた。
「いやだ・・・。マンホール・・・」
傍らをどんどん人が通り過ぎていく。
「あれ、デオング氏。準備まだなの?」
デオング氏は何も答えず一心不乱に荷物をまとめる。
「マンホール・・・。いやだ・・・」
寝過ごした自分が悪かった。毎日朝の6時から三時間おきにパブリックビューイングで映し出される気象レーダー画像をチェックしそこねたのだ。そしてこの有様だ。
「おい、デオング氏。何してる。隣の雲に乗り遅れるぞ」
「先輩、やばいです。手伝ってください」
荷造りする手も休めずにデオング氏は言う。
「ったく、しょうがねぇな。ちゃっちゃとまとめねぇと、俺も遅れちまうよ」
先輩はそう言いながら、手のつけられていないもうひとつのボストンバッグにデオング氏の持ち物をつめていく。
「恩に着ます、先輩」
デオング氏は、コーヒーを飲みながらアフリカ大陸を見下ろした。
「いやー、助かりました。今日は本当にありがとうございました」
「いいよいいよ。まぁ、今日はけっこう危なかったな。にしても、何であんな時間まで準備してなかったんだよ」
「いやー・・・、その・・・。寝過ごしちゃって」
「しょうがねえやつだな、まったく」
寝坊の理由を聞かれなかったのは幸いだった。昨晩部屋に女を連れ込んで、そのせいで寝入ったのが朝方だったなんてことを知られたら信用を失う。
「お前、新人だろ?まだ1ヶ月ってところか。この調子で大丈夫か? こんなことが何度もあるとけっこうやばいぞ」
「いえ、もう大丈夫です。以後、気をつけます」
「雲の上で暮らしてみませんか」
街角でそう話を持ちかけられた。デオング氏は生活に刺激を求めていたので、その話に食いついた。
人間は一定の手続きを踏めば、雲の上で暮らすことができる。その手続きとは、択捉島か与那国島にある「雲上生活課」に所定用紙を提出すること。そして、そのときに「雲上生活課」所員と契約の握手をすること。これだけ。
「悪魔との契約、と申せばかっこいいかもしれませんが」と説明係は言った。
「特に大変なこともありません。好きな雲を選んでそこで暮らす。どんな種類の雲でも問題ありません。それが雲であれば」
「雲上生活課」に書類が受理されると、晴れて「くもびと」となる。雲の上を歩けるようになる。それ以外はそれまでと同じ。それまでと同じように呼吸をして、食事をして、本を読んで音楽を聴いて、歯を磨いて寝る。
ひとつ新たに生活リズムに組み込まなければならないことといえば、気象レーダー画像をチェックすることだ。
雲は地球上の至る所で生まれては消えていく。雨が降ったり風が吹いたり、そのたびに雲の分布図は変化する。
雲の上に暮らしているのだから、雲が切れれば当然落ちる。落ちたらどうなるかといえば、死ぬわけではない。厳密に言えば時々死ぬが、死ぬ確率は低い。
死なない代わりに、雲の上から世界を見下ろす生活をしてきたぶん、世界を見上げる物体に生まれ変わる。踏みしめられているという感覚を嫌というほど味わわされる余生を送る。その生まれ変わりとしてもっとも一般的なのが、マンホールなのだ。
そうならないように気象データをきちんと確認して、自分が今いる地域の雲の様子をチェックする。
もし自分たちがいる雲が雨を降らせて消えてしまうのなら、荷物をまとめて他の雲に移動しなければならない。
また、自分たちの雲が大丈夫でも近隣の雲が雨を降らせるようならば、遅かれ早かれその雲に住み込んでいる人たちがこちらの雲に移動してくることになる。そのときに新たな寝床を見つけられずに困っている新参者を受け入れてあげられる体制を整えておくのが、「くもびと」の間での暗黙の了解だ。
90日間は「くもびと」お試し期間で、その間に地上での生活と雲での生活を比べて最終的な判断を下すことになる。
地上に戻るのは簡単だ。1kmおきに設置されている「くもびとボックス」にパーソナルナンバーを入力、おためし期間中であることが確認されれば、「地上に戻る」ボタンを押せばいい。「くもびと」になる以前の自宅に送られる。
雲の上に戻るときも大体同じだ。各自治体に3~5軒設置されている専用のプレハブ小屋で同様の手順を踏めばいい。
デオング氏はおためし期間を有効に使って、何人もの女を雲の上に連れ込んでいる。
「雲の上で、ふたりきりでデートしないか」という誘い文句に女たちはおもしろいように引っかかった。
はじめは半信半疑でも、数時間酒を飲み交わした女たちは必ずデオング氏と同じベッドに入って、ときにニューヨークを、ときにパリを、ときに東京を、あるいはひとつの大陸を雲の上から眺めていた。
おためし期間終了の3ヶ月が目前に迫った日曜日。デオング氏は今までで一番フカフカの雲を探し出して、夜の街に繰り出す準備をしていた。
普段「くもびと」が暮らすのには、重苦しい雰囲気の漂う黒い雲のほうがいいのだと、件の先輩が教えてくれた。そのほうが安定がいい。よく人々が憧れる綿菓子のような雲はその見た目どおりたしかにふわふわで、それゆえ足場が悪い。生活には不便だし、最悪の場合歩くときに足をとられ、雲間の移動に遅れてしまって下界に落下、マンホールになる恐れがあるというのだ。
しかし一夜限りの女を抱くのには、デオング氏の若く猛った下心とはまるで正反対の真っ白な厚みのある雲が適していた。
デオング氏はがんばった。1ヶ月以上目をつけていた女をとうとう口説き落とし、雲の上へと連れ込んだ。
女は期待通りだった。期待通り雲の上からの景色にため息を漏らし、そのため息が少しずつ熱を帯びていって、やがて甘く湿ったあえぎ声に変わる過程まで、すべてデオング氏の期待通りだった。
夜が明けて、女を連れて「くもびとボックス」へ向かう。地上に戻るためにパーソナルナンバーを入力する。
しかし、デオング氏は「永久くもびと」と表示されている。
何度もパーソナルナンバーを入力し直しては首をかしげるデオング氏。
8度目の入力中にようやく気付いた。彼はお試し期間を3ヶ月だと思っていたが、書類には90日と書いてあった。
「新規くもびと」初月も翌月も31日まであった。つまり今月は28日しか残っていなかったことになる。今日は30日目だ。
詫びるデオング氏となじる女。
僕は娘が幼稚園で描いたヘンテコな絵を見たときに、こんな題が思い浮かんだ。