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月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

24000字小説 下(ヘルプ・ザ・プリンス )

ヘルプ・ザ・プリンス(下)

 

僕は森野さんの住所や電話番号なんかを知らなかった。メールアドレスも知らなかった。本当に、学校にいるときしかつながれなかった。

だけど僕は、いや、だからこそ僕は、森野さんと共に過ごす時間を愛しく思い始めた。恋人としての自覚が芽生えてきたと言ってもいい。毎日、合わせても一時間に満たない時間を恋人同士として過ごすことに喜びを感じた。森野さんのことをもっと知りたいと思ったし、僕のことをもっと知ってほしいと思った(こっちのほうが僕にとって革命的なことだった。誰かに自分をもっと知ってほしいだなんて!)。

一方で、今までにはなかった悩みも生まれた。どうして僕なんだろう、かっこいいヤツは他にいくらでもいるし、頭のいいヤツも山ほどいる。僕は森野さんにふさわしいようなお金持ちでもない(森野さんとお金持ちに関して張り合える人間は地球上には存在しない、らしいが)。

僕が森野さんの恋人として胸を張るにはあまりに森野さんのことを知らなさすぎたし、自信を持つにはあまりに自分のことを知らなさすぎた。

 

何より、彼女の特殊な立ち位置が僕を悩ませた。彼女の家は大財閥で、それゆえ権力もすごいらしい。この前のデートの帰り道に森野さんは、みんなは下手に私に声を掛けたり視線を向けたりして制裁が下されるのが怖いんだと思うわ、とも言った(私そんな怖そうに見える? と悲しそうに聞いてきた。悲しそうな森野さんもかわいすぎて、僕は首をぶんぶん横に振ることしかできなかった)。だから、森野さんはあまり深追いされない、詮索されない。シマウマについても言及されないし、僕が友達から何も言われないのもきっとそのためだろう。

でも、はじめ僕はそんなこと全く分からなかった。森野さんからその話を聞くまでは、大財閥のことも国家権力のこともまるで知らなかった。みんなは知っていたんだろうか。この美少女が「ただの美少女ではない」ことを。僕にとって森野さんは、シマウマに乗っていておとなしくてそのくせ大胆な美少女だった。その僕の無知が、僕の根本的な無知に由来するのか、組織的な隠蔽工作の産物なのか、とにかく僕にはわからないことが多すぎた。

 

 

二度目のデートは、夏休みが始まった週の最初の日曜日だった。快晴だった。終業式の帰り道に、「あさって日曜日、空いてる?私の予定が急遽無くなったんだけど。よかったらどこか行こうよ」と森野さんが言った。

悲しくなるほど僕はずっと暇だ。休日は、父と母は家でゆっくりしたいと言っているし(福山雅治のライヴがあるときの母は別だ)、妹はたいてい遊びに出かける。僕はゲームをしたりテレビを見たり、たまに本を読んだりして休日を過ごしていた。夏休みも同じようなものだ。そうめんを食べる回数と、甲子園を見るためにNHKを見る時間が増えるだけ。

「うん、もちろん。うれしいよ。行きたいとことか、したいこととかある?」

「うーん。笠井くんに決めてほしいな」

「わかった。そうだな。うーん・・・」

「今すぐ決めなくても大丈夫。日曜日に、いつもの角で待ち合わせね。11時でいい?」

「うん、問題ないよ。じゃあ、それまでに考えておくよ」

「うん! よろしくね。楽しみ」

いつも通り特上の微笑みを残して、森野さんは帰っていった。

さぁ、僕がリードする初めてのデートだ。森野さん、何が好きなのかな。どこに行くのがいいんだろう。僕にはわからない。どうしたら森野さんが喜んでくれるか、楽しんでくれるか。

 

 

「わぁー、きれい! こんなにきれいなの初めて!砂浜も海もキラキラしてる!」

僕は金曜日の夜と土曜日の丸一日、つまり一日半かけて、日曜日のデートについて悩み倒した。あぁでもない、これではダメだと、何だか振るわなかった今回の期末テストのぶんを取り返す勢いで考え続けた。こんなに何かに悩んで考えたのは初めてだった。そして僕は、海にしようという結論に至った。

 

この町には美しい海があった。それ以外に何もないというわけではなかったが、この町で特筆すべきは一にも二にも海だった。森野さんは転校生だと言っていたから、たぶんこの町のきれいな海を知らないだろう。だから僕はこの町の海を見せてあげたかった。僕ひとりだけでは森野さんには役不足でも、この町の潮風が僕の背中を押してくれるんじゃないかと思った。

 

僕は、喜んでくれている森野さんを見て満足だった。この町の海は、たしかに僕の味方だった。ただひとつ、いくつかの小さな誤算があった。

一通り海を眺め終えて、森野さんは言った。

「笠井くん、日焼け止め持ってる?」

「うん、持ってるけど。森野さん、持ってないの?」(僕は色白で、ちゃんと日焼け止めを塗らないと一日で真っ赤になってしまう)

「持ってないわよ。今日海だって知らなかったし」

「あ! そっか、ごめん!」

「ううん、いいのよ。謝らないで。ホントは、女ならいつでも日焼け止め持ってないといけないんだし。たまたま今日忘れちゃってね」

「その女なら、っていうのも男権主義?」

「まぁ、そうね。でもまぁ、単純に、女はいつまでもきれいでいたいものよ。そのためには、今からいろいろ大変なのよ」

女には女の準備っていうのがあって面倒なのよね、もっと身軽になれたら楽なのになぁ。そう言いながら森野さんは更衣室に入っていった。

 

森野さんは、水着売りのお兄さんから買ったオレンジ色のビキニを着て出てきた。鮮やかなオレンジ色も目を引くけど、その色に負けずにやっぱりかわいい森野さん。僕は全ての思いをこめて、やっぱり鼻血を出した。

「ちょっと、大丈夫?」

「うん、ごめん。大丈夫」

僕らはビーチパラソルの下に移動した。

「ちょっと待ってて、ちゃんとここでおとなしく待っててね」

 

数分後、森野さんはカキ氷をひとつ持って戻って来た。

聞いてもいないのに、開口一番「お金はちゃんと払ったわよ」といたずらっぽく笑った。

その笑顔には何とか耐えたのに、そのあとに森野さんが、買ってきてくれたレモンシロップのカキ氷を食べさせてくれようとするもんだから、僕は再び鼻血を出した。僕はこれから先、毎日多量の鉄分を摂取しないことには生きていけなくなるのかもしれない。

 

森野さんは僕の日焼け止めを塗った。そして一緒に砂浜に絵を描いてしりとりをして、一緒に海で泳いだ。泳ぐのに飽きたら砂浜に戻って、日焼け止めを塗りなおした。そして砂浜が暑くなったらまた海に戻った。

お昼には売店の焼きそばパンを食べた。売店のおじさんが「お姉ちゃん、その水着良いねぇ。似合ってるよ」と言った。

「そうですか? ありがとうございます。私、サッカーのオランダ代表が好きなんです。そのオレンジなんです」

「ほっほー、詳しいんだね。悪いけど、俺よく知らないんだよ」

「えー、ホントですか? この前のワールドカップで準優勝したのに」

「そうなのかい。そりゃ、こんなかわいい子に応援してもらっちゃあ、負けるわけにもいかんわな」

「そんなー、やめてくださいよー」・・・

 

僕はそのときたしかに「僕の彼女がほめられた」と思った。そして、それは素晴らしいことだった。今まで、僕自身あまりほめられたことはなかったし他人の賞賛に深く関わったこともなかったけど、僕の好きな人がほめられることで僕自身もほめてもらったような気がした。

それ以上に、森野さんがほめられることは自分がほめられることよりも嬉しいことかもしれなかった。その感覚は、僕の幸福感受レベルが一段階洗練されたことを意味していて、そのことが僕には誇らしかった。

 

暑い日だったから、3時には海を出た。それから近くの喫茶店でコーヒーとケーキを食べながら話をした。

「そろそろ5時だけど、森野さんは今日はいつまでに帰るの?

「そうねぇ。特に決まってないけど、あんまり遅くはなれないかな」

「そっか」

「ねぇ、最後にもう一回海に寄っていい?」

「いいよ、気に入ってくれたの?」

「もちろん! お世辞じゃなくて、あんなにきれいな海って初めてだったから。ここまでバスで来たから、この距離だとなかなか簡単には来れないじゃない? だから今日見られるうちにたっぷり見ておきたいの」

「それはうれしいな。まぁ、またいつでも来れるよ。秋とか冬の海もなかなかいいよ。また来ようよ」

森野さんは何も言わずに微笑んだ。いい考えだわ、と言っているように見えた。

 

夕暮れの海岸をふたりで歩いた。まだ何人かのサーファーが残っていたけど、昼間ほどではなかった。うっとうしい梅雨前線は数週間前に消え去って、今日の空と風は僕らの頬をさわやかに、そして軽やかになでた。

「僕たちが座ってたのって、あのへんかな。あの、今赤いランニングシャツ着てる男の人が立ってるところ」

「いや、もうちょっと手前だと思う。そう、あそこ! 低いヤシの木がポンポンって連続で2本生えてるでしょ?あの手前のところだわ」

「ふーん、よく覚えてるね」

「ここのヤシの木、ずっと等間隔で並んでるのにあそこだけ間隔が変わってるから」

いつそんなことに気がついたんだろう。初めから気づいていたんだろうか、カキ氷を買って帰ってくるときだろうか、昼食後に一休みをしていたときだろうか。

僕は何も知らない。僕はなかなか彼女の世界に近づけない。もっと彼女の見ているものが見たかった。彼女の捉えた音を、彼女の感じたことを、彼女の考えたことをその場で知りたかった。

「ありがとう」と森野さんは言った。

「ん?」

「今日は本当にありがとう。とっても楽しかった。海も最高だった。笠井くん、きっといろいろ考えてくれたんじゃない? 今日のこと」

「え、うん、まぁね。けど、次からは鼻血出さないように気をつけるよ。それに・・・」

え?

森野さんの瞳が少し揺れている気がした。底の見えない黒色のしずくが、こぼれ落ちそうに揺れていた。

僕には森野さんの感情がわからなかった。森野さんの目に映っているものがわからなかった。いま森野さんがその瞳に映しているものを見てみたくてそっとのぞきこんだけど、この世の全てをたたえるその瞳に僕が飲み込まれた。

 

僕と森野さんを、僕の町の潮風が包んだ。

 

 

それからバス停まで10分ぐらい歩いて、バスを何分か待って30分ほどバスに揺られ、バスを降りたところで今日はお別れした。

「じゃあ、またね」

「うん、また」

 

バスを降りて歩いて帰って、家に着いたのは7時前だった。帰っていると、頭上をヘリコプターが3機、沈み行く夕日に向かって飛んでいった。そのとき、またも何も、僕は森野さんと学校が始まるまで連絡を取りようがないことに気がついた。

 

いつものように暑い夏休みだった。宿題も多かったけど、何の予定もない僕にこなせない量ではなかった。セミは朝からがなりたてたし、毎週のように「観測史上最大」のゲリラ豪雨が日本のどこかを襲った。いつものように僕はそうめんを食べながら甲子園を見た。

それでもいつもよりも少しだけセミの鳴き声を許せたり、ゲリラ豪雨のせいで被害を受けた集落や人々を想って心を痛めたりできたのは、夏休みが明けた後に再び森野さんに会えるという楽しみが僕を支えたからだと思う。夏バテで新学期を迎えられないなんてことがないように、自分で具材を切って少しだけ豪勢なそうめんを作ったりもした。

12月に入ってクリスマスを待ちわびる子どものように、僕は新学期が始まるのを今か今かと待ち望んだ。

 

8月27日に新学期が始まった。8時15分より少し前にいつもの角に到着して、僕は森野さんを待った。少し雨が降っていて憂鬱な新学期の始まりだけど、森野さんに会えることを思えばなんでもなかった。

 

しかし、その日森野さんは来なかった。20分になっても25分になっても来なくて、僕はあきらめてひとりで登校した。そのせいで遅刻ぎりぎりになって、担任の先生から「新学期早々たるんでいる」と小言をくらった。

次の日も、その次の日も来なかった。何日も遅刻ぎりぎりで教室に入るのはさすがにまずかったから、15分をすぎたらタバコ屋の角から最後の角までゆっくり歩きながら何度も後ろを振り返り進んだ。そして、22分になっても森野さんが来なかったら早足で学校の門をくぐった。

 

そうして2週間が過ぎた。

 

初めの1週間は、体調不良だとかバカンスの延長だとか(なにせ大財閥の娘だ)いろいろ可能性を考えてあまり落ち込まないようにしていた。でも、2週間連続となるとさすがに心配になってきた。

僕から森野さんに連絡を取ることはできないからとりあえず先生に聞いてみると

「あぁ、森野はまた違う学校に行ったよ。すまんな、お前にぐらいは伝えておけばよかった」と言った。

 

僕はひどく落ち込んだ。森野さんが突然いなくなったことにも落ち込んだし、僕に連絡をくれなかったことにも落ち込んだ。あの日、海に行った日の帰り道、僕たちは「またね」と言って別れた。次の「また」がずいぶん先のことなのだと気がついて少しさびしくなったりもしたけど、その「また」がたしかに存在するのなら待つことぐらいなんでもなかった。

 

僕は青春時代の全てを失ったように抜け殻になった。10月の初めの週に行われた体育祭のリレーも「ひざが痛い」と嘘をついて選手から外してもらった。何をしたいという気力も起こらなかった。

僕の身内は全員元気で、僕はまだ大切な人を失うという経験をしたことがなかった。だからこの喪失感をどう扱えばいいのか、この状況にどう立ち向かえばいいのかわからなくて途方に暮れた。

 

せめて森野さんが今どこにいるかだけでも知りたいと思った。11月半ばの土曜日に、期末テスト勉強の息抜きも兼ねて僕は森野さんの家があると思しき界隈の路地を歩き回った。森野さんの家がなくても、何か情報を得られるかもしれないと思った。たとえ、なにか組織的な隠蔽工作が存在するとしても。

半日かかって、僕は何軒か表札のかかっていない家を見つけた。そのうちでいちばん立派な一軒家に目をつけた。立派な生垣や植え込みがあって、木の格子門からのぞくその家はお寺か神社のような荘厳さを持っていた。

ちょうど向かいで枯葉を掃いていた初老の女性に尋ねてみた。

「あの、ここの家に森野さんという方は住んでませんでしたか?」

「えー、森野さんねぇ。森野さん、森野さん・・・。あぁ、たしかにいたよ、森野さんね。立派なお宅よね。でも森野さんは私がまだ小さい頃に引っ越して行ったよ。なんでも、外国に住むことになったって言って」

「え、ということは。数十年前の話ですか」

「そうね。50年ぐらい前かしらねぇ。やだ、口に出してみると、私も年をとったのねぇ」

「あ、あの。他に森野さんはこの近くにいらっしゃいませんか」

「うーん、いないんじゃないかしら。この辺ってそんなに大きい地区でもないし。だから出たり入ったりする人の情報はいやでも入ってくるし、名前ぐらいはほとんどみんな把握してるからねぇ。森野さんはこのお宅以外には知らないわ」

「そ、そうですか。ありがとうございます」

 

むしろわからないことが増えた気がした。このあたりに森野さんはいない。もちろん、この地区以外を当たれば他にも空き家は見つかるかもしれないが、これ以上他の地区を探すとなると、高校に通うのにずいぶん不便な地区に住んでいることになる。

それに、森野さん自体は存在した。50年前に。僕は玉手箱を開けてしまったんだろうか。でも、いつ? 僕は毎日同じようなことをしていた。同じような時間に起きて同じような食事をして同じように高校に通った。ただ、森野さんがいなくなっただけだった。

家に帰って、不審がられるのを承知で妹に今日の日付を西暦も含めて尋ねた。昨日に一日だけ足した日付。

つまり、僕は玉手箱を開けたわけではないのだ。

 

本当に悲しいことだけど、僕はもう、この一連の出来事も「冷凍保存」するしかないと考えた。世の中には、どんなに努力しても望んでも手の届かない領域がある。森野さんは僕にとってあらゆる分野でその領域に属していた。

僕が森野さんとのつながりを感じたのは本当だし、森野さんがいたこと、森野さんと過ごした時間、森野さんが僕にかけてくれた素敵な言葉たちも嘘ではないと思う。

でも、それに振り回されてばかりもいられないことは明白だった。森野さんの消失は僕に大きなダメージを与えた。僕の心に深い深い穴を開けた。だけど僕はそれを乗り越えなくちゃいけないんだと思った。

夢のような輝きを放った甘美で優しい日々は、その背後に暗黒の影を携えていた。それは突如姿を現し、冷たく、鋭く、僕に残酷だった。

だけど、僕はその闇を受け入れなければならないのだった。

 

勉強の成績は少しずつ落ちていった。3年生に上がってしばらくすると、何に対してもがむしゃらになれない僕は部活を終えた他の生徒の頑張りに取り残されるようになった。大学受験を2ヵ月後に控える頃には、僕の校内順位は中の下になっていた。でも、もともとレベルの高い大学に進学するつもりはなかったし、今の段階でわざわざ都会の大学に出る必要性も感じなかった。

それ以上は学力を落とすことなく、僕はバスで40分ほどのところに位置する地元の公立大学に進んだ。

 

大学では英会話サークルに入った。でもそれも最初の2ヶ月でやめた。もともと英語がそんなに得意なわけでもなかったし、サークルの人たちも本気で英語を学びたいと思っているわけでもなさそうだった。最初の30分は、この1週間に世界で起きたニュースについて3分間英語で話すということをやるけれど、そのうちに雑談になって合コンだとか合宿だとかの話を始めた。悪い人たちではなかったけど、わざわざ大学の授業後にこの場に残る必要は感じなかった。

 

週に4日コンビニでアルバイトをした。やりがいを感じるわけでもなかったし楽しいわけでもなかったけど、家に帰ったところですることもなかった。そんな風にして、あっという間に7月になった。

 

ある日アルバイトから帰ると、母が一枚の封筒をひらひらさせて言った。

「高平に手紙来てるわよ。あんた外国人の友だちいんの?」

僕に外国人の友人なんていなかった。英会話サークルに所属していた本当に初期の頃に何人かの留学生と話をすることはあったけど友人といえるほどの関係ではなかったし、ましてや手紙を送られてくる理由なんて考えつけなかった。

部屋に上がって送り主を見ると、そこには丁寧な文字で「Ria Morino」とあった。

アルファベットで書かれた森野さんの名前は何だか森野さんではないような感じがしたけど、僕に手紙を送ってくれる森野さんはあの森野さんしかいなかった。

僕はその封筒の口を慎重に切った。あたかもその封筒こそが森野さんであるかのように。

「笠井高平様」と手紙は始まっていた。

 

笠井高平様

 

森野リアです。突然いなくなったこと、笠井くんに何の連絡もしなかったこと、連絡をするのがこんなに遅くなってしまったこと。本当に申し訳なく思っています。ごめんなさい。

今から、私が2年前に笠井くんの町に来たいきさつ、私が笠井くんの町を去ったいきさつ、そして今の私について説明します。少し長くなりますし、私の勝手は重々承知ですが、笠井くんにはぜひ知ってほしいのです。最後までお付き合いください。

 

私が大財閥の娘であることは以前にもお話したとおりです。すべて本当の話です。そして、私が笠井くんの町にやってきたのもそのことが関係しています。

現在、私の家の経済は世界中のあらゆる地域、分野に影響を及ぼしています。この家の経済が動いて初めて世界が回りだすようなものです。もちろん日本、そして笠井くんの町もその影響を受けています。

しかし、笠井くんの町は少し特別でした。笠井くんの町は、町の規模としてはそれほど大きくありませんでしたが、上品なたたずまいをしていました。由緒のある町でしたよね。それは、いくつかある武家屋敷のような立派なおうちにも見て取れました。そして、そこに住む人たちは彼ら自身の血統や伝統を重んじました。それを私の父は嫌がりました。

私の父が、その経済力を背景にいろんなところでいろんな形の力を身につけていく中で、笠井くんの町はそれに屈しない特異な町でした。笠井くんの町の町長さんやそのほかの力のある人たちは、お金と交換で自分たちのご先祖が築き上げてきたものを渡すことに同意しませんでした。

私の父は、塗り絵は完璧に塗りつぶさないと気が済まない人間です。たとえ笠井くんの住んでいるような小さな(こんな言い方でごめんなさい)町でも、自分の勢力下にきちんと収まっていないことに父は苛立ちました。

そこで父は、私を笠井くんの町に送りました。町の特徴や経済基盤、政治勢力、その他もろもろの情報を私に仕入れさせるためです。いわば偵察係として私は送られたのです。

ちなみに私は笠井くんと同じ年齢ではありません。当時の私は19歳でした。それでも、娘を見知らぬ土地に放り出すなんてひどい話ですよね。

そんなわけで、私は高校生として生活を送りながら放課後には父から言い渡された情報を仕入れるべく仕事をこなしていました。

 

笠井くんとの出会いは完全な誤算でした。私にとっては良い意味で、私の父にとっては悪い意味で。あの日、笠井くんを一目見たときに今までに感じたことのない何か強い力が私を圧倒しました。今でもあの瞬間の感覚をありありと思い起こすことができます。しかし、その感覚を表す表現はいまだに見つけられずにいます。

 

私はもともと、あんなに砕けた話し方はしません。臆病な性格なのです。臆病で、慎重なのです。だけど、笠井くんを前にしてそんな躊躇は許されませんでした。そして、明るく砕けた話し方をすれば、笠井くんの心に少しでも近づけるんじゃないかと思いました。私は誰よりも笠井くんに寄り添いたかったのです。あんな風に話しかけることで、私の心はいつも笠井くんの心にギュッと抱きついていました。離すまいと必死でした。

私はもっとずっと笠井くんと一緒にいたかった。学校帰りに寄り道したり、休みの日にはもっといろんなところに遊びに行きたかった。

 

でも、私がしなくてはならない仕事は本当に山のようにありました。それも、ただ量が多いだけではなく、複雑で難解で、誰か他の人に任せるわけにもいかないような種類の仕事ばかりでした。

それでも何とか手を抜いたりデータの捏造をしたりして、そこでできた時間を笠井くんとの時間にあてようとしました。でも、うまくはいきませんでした。

父は厳格で頭のいい人間です。それに私の親です。私が仕事に手を抜いていることが少しずつばれていきました。それでも初めはなんとかごまかしていたのですが、笠井くんと海に行った帰り道、私は父の元に返されることになりました。私をずっと監視している人がいて、私と笠井くんとの関係が明るみに出たのです。

色事にうつつを抜かした私を父は叱責しました。笠井くんについても言及しました。それでも、私は笠井くんについてだけは話しませんでした。これからはまじめに業務をこなすから、相手の男の子にだけは手出しをしないように言いました。さすがの父も、私のその願いだけは聞いてくれたようです。

 

私は現在パリにいます。そこで父の秘書のような役割をこなしています。これまで(私が笠井くんの町を離れてからという意味です)、私は精力的に働きました。笠井くんのことを思い出すと平気ではいられなくなるから、笠井くんのことを思い出す暇がないように一生懸命に時を過ごしました。そして実際、それはうまくいっていました。笠井くんのことを忘れたことはありませんでしたが、笠井くんとの日々を思い出す時間はなくなっていきました。

 

しかし先週、父がコート・ダジュールで関係者を招いてパーティーをしたときに見た海が、私と笠井くんとの日々を思い出させました。そして、私は笠井くんにまだ何も伝えていなかったことにも久しぶりに気がつきました。そして、このお手紙を書いたのです。

 

笠井くん、元気ですか。今は大学生になっているのでしょうね。どこか都会に出ましたか。それとも、あの海が見える町に残っていますか。

こんな私が言っても軽薄に聞こえてしまうかもしれませんが、私は心の底から笠井くんのことが大好きでした。今もそうだと思います。でも、きっとしばらく会うことはできないでしょう。もしかすると、もう二度と私は日本に住むことはないのかもしれません。

 

笠井くん、どうかお元気で。笠井くんの幸せを心から願っています。

 

森野リア

 

 

僕の心の一番奥で冷凍していたものが少しずつ溶けていく気がした。そして、氷に覆われていて見えなかったその核の部分は僕に「動け」と命じていた。

 

次の週から僕は毎日アルバイトをした。もともと店長がオーバーワーク気味だったし、僕のシフトが増えることに誰も文句は言わなかった。親も少し不思議そうではあったけど、大学生の僕に多くを口出しすることはなかった。

もちろん、僕はパリに行くつもりだった。森野さんはパリにいる。それがわかった。パリのどこかは分からない。いまはパリにいないかもしれない。それでも、何か森野さんをつなぐ手がかりを探すために、とにかく僕はパリに行くしかなかった。

7月はずっとアルバイトをしてお金をためた。大学の試験やレポートの提出もあってしんどかったけど、僕がヒーヒー言いながら仕上げなくてはならないレベルのものではなかったから単位をとるぐらいは何とかなった。

そして8月の2週目に入ると、一ヶ月の休みを取ってパリに発った。休みを取ったというよりも、一ヶ月も休まれると困るという店長とケンカ別れするような形でアルバイトを放り出して出国した。

トルコのイスタンブールで乗換えをして、13時間ぐらいかけてパリに着いた。とりあえずパリを歩き回ることにした。

1週間かけて、地下鉄の路線沿いにパリを歩き回った。バカンスシーズンのパリは多くの観光客でにぎわっていた。アイスクリームやジェラートも売っているし、冷房の効いたカフェの中で他の人たちは優雅に時を過ごしていた。僕は重たいリュックサックを背負って毎日毎日、太陽が上ってから沈むまで歩き続けた。

いろんなホテルのフロントで「Morino」について尋ねたり、地下鉄の構内にある掲示物をひとつひとつチェックして回った。なかなか有力な情報は出てこなかった。

9日目には体調を崩した。ろくに栄養も水分も取らずに歩き回ったんだから当然だと思う。日焼けも痛かった。一日も無駄にはしたくなかったけど、2日間はきちんと休んで再び歩き始めた。

 

その日はパリの中心地区をもう一度歩いてみることにした。凱旋門をくぐり、一直線にシャンゼリゼ通りを歩いた。どちらも人でいっぱいで、この中に森野さんがいたとしても見つけられないんじゃないかというぐらいの人混みだった。

シャンゼリゼ通りにはいろんな高級ブランドの店が立ち並んでいる。ヴィトンとかプジョーとか、森野さんがいるかもしれない店に一軒一軒入っていった。それでもいなかった。

夕方になり、病み上がりの疲れも出てきて少しフラフラしながらそのままコンコルド広場を抜けてテュイルリー庭園に入っていった。ここでもたくさんの人が丸い噴水の周りで本を読んだり新聞を読んだり話をしたりしてくつろいでいた。

僕も空いている椅子のひとつに腰掛けた。これからどうしたらいいんだろう。あの手紙を読んでから熱に浮かされたようにアルバイトをして、お金を貯めて、そしてここまでやってきた。すべて、森野さんと再会を果たすためだった。今すぐ会えなくても、森野さんといつか再会を果たすための手がかりが欲しかった。

しかし、そんなものはこれっぽっちもなかった。それはそうかもしれない。人を探すには、もっとたくさんの人員で組織的に、戦略的に動かなくてはいけないのだろう。こんな風に原始的に普通の人間がほっつき歩いたところで、一ヶ月なんてあっという間に無駄に過ぎてしまうんだろう。

 

そのとき、横からソフトクリームを持った手が伸びてきた。

何だろうと思って顔を上げた。そこには森野さんがいた。

 

「森野、さん?」

「うん」

「・・・」

「ここまで来てくれたの? パリまで?」

「・・・うん」

「疲れたでしょう、ずいぶんやつれてる。ほら、これ食べて。溶けないうちに」

僕はソフトクリームを受け取った。だけど全然力が入らなかった。ソフトクリームはとても重たかった。

「この子がね、笠井くんの匂いを嗅ぎつけたの」

そこにはマリオがいた。マリオの顔はまっすぐ凱旋門のほうを向いていた。

「これ、返すの忘れてたから。でもそのおかげで」

森野さんの手には、僕のあの日の日焼け止めが握られていた。

「私が笠井くんと離れて悲しがってたの、マリオはわかってくれたから。それで、これを見せてお願いしてたの。笠井くんの気配を感じたら教えてねって。そうしたらおとといぐらいからソワソワし始めて、今日ここまでやってきたの。ルーブル美術館とこの場所を何往復もしてたわ。」

この時間になってもルーブル美術館の周りにはたくさんの人が並んでいた。

「それにしても、私が笠井くんの話するといつもマリオ不服そうな顔するのよねぇ。何かあったの?」

「いや」

何もない。ただ、初めからだ。ウマが合わないということなんだろう、まさに。

「手紙、ありがとう。あれ読んで、来たんだ。ここまで」

「うん。ホントにごめんなさい。いきなりいなくなって、いきなり手紙書いて。迷惑だよね。良くないって思ったんだけど、このまま一生笠井くんに何も伝えないほうがもっと良くないって思ったんだ」

「うん、全然迷惑じゃないよ。ほんとに、ほんと」

「笠井くんと出会ったときにね、なんていうかな。手紙にも書いたと思うけど。何者かに心臓をグッてつかまれて、ワーッて揺さぶられたの。すごい衝動だった。そのときの気持ちとしてはね、好きとか惚れたとかっていうよりは・・・。そうだな。私がこの人を助けてあげなくっちゃ、っていう感じ」

 

見知らぬ女の子に助けてもらうだなんてずいぶん格好悪い男だけど、僕の高校生活を ー たとえ数ヶ月であっても ー 七色に染めてくれたのは森野さんだったし、そのあとに停滞期があったにせよ手紙をきっかけに僕はがむしゃらに行動をとった。計画も手順もなく、とにかく僕はここまで突っ走ってきた。現状を怠惰に過ごす以外の選択肢を教えてくれたのは森野さんであり、その意味では僕は救われたのかもしれなかった。

「理屈じゃないって言っても・・・。覚えてるかな、戦争はしちゃいけないし信号は守らなきゃいけないって話」

「うん、覚えてるよ。根本的な性質の話でしょ?」

「そう。まさにそう。そういうのって、理屈ではないけど言い換えはできるの。性質だとか習性だとか仕組みだとか。でも、私が笠井くんと出会ったときに感じたのは言い換えなんてできない種類ものだったの。私がここで思い出すことはできる。鮮やかに。タイムスリップしたみたいに。でも見せてあげることはできないし、言い表すこともできない」

森野さんはここまで話して、ぼくの手にあるソフトクリームをなめた。

 

「僕はここまで来たよ。森野さんを見つけ出すためにここまで飛んできた。でも、僕はこれから森野さんのために何ができるだろう?」

「そうねぇ。私だってもちろん笠井くんと一緒にいたい。ずっとずっと一緒にいたいわ。でも・・・」

少しうつむいて森野さんは続けた。

「お父さん、厳しいし・・・」

「何でもいい。少しでも森野さんの助けになるようなことがしたいんだ」

「うーん」と言って森野さんは考えた。久しぶりにあの唇の左下のほくろを見て、僕は何だか泣きたくなった。実際には森野さんの置かれた状況を共有しようにも、僕と森野さんの境遇は生まれたときから違いすぎた。

だけど、森野さんの華奢な体に背負わされたものは大きすぎる気がした。耐え切れないように見えた。

「好きって言って」

「好きだよ」

「もっと大きな声で」

「好きっ」

「叫んでほしいのよ」

「いや、でも、ここ人が多いし」

そのとき完全に森野さんと目が合った。僕をじーっと見ていた。真剣に優しく僕を見つめていた。その瞳は僕から理性を奪った。

「きみのことがだーいすきだよっ」

パリ中の人間が僕を見た。そばにいた男の子は突然の大声に泣き出してしまった。僕だって泣きたかった。泣きたいぐらいに清々しかった。人のことを心から好きだと叫べることは、世界で一番幸福なことだった。

「私もよ」

森野さんは微笑んだ。シマウマが阿波踊りを踊るくらい、世紀末的に最大級の微笑みだった。

「森野さんは叫んでない。ずるいよ」

「私は女の子だから」

「どういう意味だよ」

 

「大丈夫、なんとかしてみせるわ。私はあなたのもの。もちろん笠井くんは私のもの」

 

マリオが僕を見てニヤリと笑った。本当は俺の女だけどな、と言っているみたいなうぬぼれた笑いだった。

お前はぜんぜん分かってないなと、僕は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パリの空もきれいな青色だったね」

 

「うん」

 

「青くて高かった」

 

「うん」

 

「でも、やっぱりこの海が一番きれいだよね」

 

「うん」