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月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

その2-4(ロンドン)

ロンドン4日目。明日は半日かけてエディンバラへ移動するから、観光は実質今日が最後である。

良い一日を迎えるためには、出だしが重要だ。朝ごはんを持ってきたメイドにたたき起こされて、いくらのチップを渡したのかもわからないような状態で気持ちよくロンドン観光を終えられるはずがない。

8時から8時30分までに朝食を持ってくるように掛札にチェックをしておきながら、私たちは7時45分に起床した。さすがにまだ来ていない。

7時50分。息を潜め、そのときを待つ。まだ来ない。

7時55分。おとといのケースから考えると、そろそろ来る。が、気配はない。

秒針は進む。外に人が動く気配がある。来るか。

私の緊張とは裏腹に、友人は洗顔をしている。

7時57分。ノック。ついに来た!どうやら私たちの勝利だ。いや、私の勝利だ。起床後12分経っている私は悠々と彼女を出迎える。もう君に腱鞘炎を起こさせるほどノックをさせないし、法外なチップも与えてなるものか。一瞬間、彼女の顔には落胆の色が浮かんだが、その色はすぐに消えた。一勝一敗、恨みっこなしといったところだろう。これからもフェアプレーといこうじゃないか。

茶番は置いておいて、まず私たちは、エミレーツスタジアムに向かった。ロンドンの強豪アーセナルのホームスタジアムで、降りる駅の名前もアーセナル(Arsenal)だ。

この日も晴れ。私たちの運が良いのだろうか。それとも、夏はロンドンでも晴れるのだろうか。

アーセナル駅を一歩出ると、そこは閑静な住宅街である。午前の穏やかな日差しと時々そよぐ風。平和という言葉の似合うこの空間に、男たちが血をたぎらせて叫ぶスタジアムが本当に存在するのだろうか。

スタジアムへの道を示す標識を見ながら進むと、駅を出て5分もしないうちにスタジアムにたどり着く。ここも大きなスタジアムだ。

かなり新しいスタジアムのためか、設備もきれいでオシャレな雰囲気を感じた。ここのスタジアムツアーではガイドさんが先導するのではなく、オーディオガイドを聞きながら自分たちのペースで進む。各国言語取り揃えていて、日本語もある。おしゃれで先端的なスタジアムだ。

スタジアムのほかにミュージアムもある。敷地内には、歴代の選手の写真が飾られていたりする。レジェンドともいえるティエリ・アンリの銅像もあるし、Jリーグチームの監督を務めたこともあるベンゲル氏の胸像もあった。

友人はアーセナルの大ファンらしく、私は彼の専属カメラマンとなっていた。

客席も、スタジアムの外周を囲むタイルも、チームのシンボルカラーである赤で統一されていたのが非常にかっこよかった。

 

つづいて、ホワイト・ハート・レーンスタジアムだ。トットナム・ホットスパーのホームスタジアム。ちなみに、ハートのつづりはheartではなくhartである。私は、このチームに所属していたクロアチア人のルカ・モドリッチがお気に入りの選手なので、このスタジアムを一番楽しみにしていた。彼がスペインの超名門チームであるレアル・マドリードに移籍してしまったのは少し残念だった。

スタジアムを訪れるには、まずチューブに乗って最寄り駅まで行くのだが、そこからもまだ少し距離がある。初の2階建てバスである。

バスが来ると、私たちは模範的な観光客として2階に上った。やはり景色がいい。普段はなかなか体験しない車窓の高さである。景色が良いのはいいが、2階だから少し揺れる。降車するときには前もって準備しておかないと、あっという間に扉が閉まってしまうのだが、準備をしようにも揺れるので立っているのがやっとである。

ましてや階段である。狭くて急な階段を、バスがグラグラ揺れる中で停留所に着くか着かないかという絶妙なタイミングで駆け下りていくスリルはなかなかのものだった。ふたりとも元サッカー部だということが功を奏したように思う。ちなみに、バスでもOysterカードが使えた。

スタジアムの規模はこれまでよりも小さい。チェルシー、アーセナルは共に名門チームだが、トットナムはそういうわけではない。しかし、それゆえのアットホームな雰囲気、地元のクラブ愛を感じられる空間だった。素朴というにふさわしい。何より、まぶしいほどに整地された芝生がそれを物語っている。ちなみに、ツアーを牽引してくれたのは、モッサリした髭をたくわえた中年紳士である。

ツアーの後、グッズショップに行く。モドリッチ選手が移籍したことは知っていたが、彼のネーム入りで是非ともユニフォームが欲しいと思っていた私は、レジでそう頼んでみた。

対応した男の店員は少し困った顔をして、隣で仕事をしていた女性店員に尋ねる。「モドリッチって今でもプリントできるの?」とでも聞いたのだろう。

彼女は怒ったような顔をして、「No! He’s in the team now!(無理よ!彼はもうこのチームにいないんだもの!)」と言ってきた。そんな怒らんでも・・・と思ったが、彼女も私と同じでモドリッチのファンだったのかもしれない。いや、私なんかよりもよっぽど愛していたのだろう。部屋には彼のポスターが貼ってあって、出かけるときは必ずポスターに向かって「いってきます」と言っているのだろう。気分のいい日はウインクのひとつも挟むかもしれない。だから、彼がスペインに行ってしまったことには大変傷ついているのだ。

その矢先に、彼を思い出させる私の失言。語調が強くなるのも無理はない。忘れたい記憶を蒸し返す男はいつの世も嫌われ者である。

ただ、おあいにくさまなのは、彼はクロアチア人の非常に美しい女性と結婚していて子どももいるということである。

彼の名前をプリントすることはできなかったが、いくつかグッズを買って、再びバスに乗って駅に戻る。

車窓から見える人々の顔立ちが、これまでと違って中南米やアフリカ系だったことが印象的だった。

 

今夜は、二日前に急遽購入したチェルシーの試合を観に行くことになっているが、それまで時間は残っている。ロゼッタ・ストーンのある大英博物館に行くことにした。博物館は無料だと聞くし、ちょうどいいだろう。

Tubeに乗って博物館まで行く。入館を待つ列ができていたが、さほど時間もかからずに中に入ることができた。入るとまず、組み立ての完成された恐竜の化石がドーンと飛び込んでくる。歴史関係の展示が多いイメージだったので、初対面の相手が恐竜だったのは意外だった。

見ていくと、恐竜の化石や、地球の起こり方、様々な動物の模型が展示してある。それらを興味深く見ていくのだが、そろそろロゼッタ・ストーンを見たい。ロゼッタ・ストーンは、ナポレオンがエジプト遠征を行ったときに同行させた学者が現地で見つけた石版である。ギリシア文字、デモティック(民用文字)、エジプト文字が刻まれていて、フランス人のシャンポリオンが19世紀に解読した。という風に高校世界史で習う。ロマンの塊だと解釈しておけば間違いはないと思う。

なぜフランスではなくイギリスにあるかといえば、よく知らないがおそらく、最終的にナポレオンは没落するからである。この時代にフランスとイギリスが戦ってフランスが勝ったことがないからである。

有名なのは、イギリスとフランスがトラファルガーという沖で海戦を行なってイギリスが勝った話である。トラファルガー沖はスペインにあるらしいが、そのときにイギリス海軍を指揮したネルソンという人は銅像になって、ロンドンのトラファルガー広場で英雄扱いである。英雄扱いなのは、海軍を率いて勝利しただけでなく、自身はそのときに砲弾に直撃して戦死したからだという、血なまぐさい歴史に特有の事情もあるはずである。

そんなわけで、非常に有名なもののはずなので少しは案内があってもいいと思うが、ちっともない。館内図を見ても、ロゼッタ・ストーンの置いてありそうなエリアがない。どれもこれも、世界の気候区分だとか、大昔の世界の様子だとか、世界各地の生態系の違いだとか、歴史事項に関係しそうな文言がひとつとして見当たらないのである。

先述したように友人は特に歴史に興味がないので、それはそれとして楽しんでいる。私だって、これはこれで好きである。全ての男性は、図鑑を見て恐竜の名前をたくさん覚えるという少年期を通過するものだと私は信じているし、だからこういう展示もおもしろい。

しかし、私がまず見たいのはロゼッタ・ストーンである。血眼になって探していると、ある所で、ロゼッタ・ストーンがここには絶対にないという結論に行きついた。それは、この博物館の名前を見たときである。

National Natural History Museum。私たちは国立自然史博物館に来ていたのである。これではないはずである。ここにロゼッタ・ストーンがあると、私(たち)が誤解したのには大きく二つの理由がある。

ひとつめは、Nationalという響きである。ロゼッタ・ストーンは、何度も言うように世界的な発見であるから国宝にふさわしい扱いを受けるに値する。国宝を扱う博物館とはズバリNational(国立)である。たぶん私は、駅員に最寄り駅を尋ねるときに「National museumにはどの駅で降りるのですか?」と聞いていたに違いない。だから、親切な駅員は正しくこの博物館の最寄り駅を教えてくれたのである。ロゼッタ・ストーンがあるのはBritish Museumだ。

ふたつめは、Natural Historyを勝手にNature & Historyだと解釈した点である。しかし、「自然と歴史」の博物館でなく、「自然の歴史」を扱う博物館が存在しても全く問題はない。それが国立であることにも、私が文句を言える立場ではない。実際、大迫力の恐竜の化石が置いてあるのだからここも立派である。

そうとわかれば潔く、エジプトだかどこだかの文字が書いてある石のことなんて忘れて、私たちは太古のロマンに身を寄せた。