月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

その2-5(ロンドン)

良い頃合になったので、一旦ホテルに戻り、おみやげを含む今日一日の荷物を置く。そして、二日前に購入したチェルシーのユニフォームに着替えて再出動である。

電車内はすごい混みようで、チェルシーのスタジアム最寄り駅ではその大半がドッと降りた。グッズを売る人がいるわ、ハンバーガーや飲み物を売る人がいるわ、そしてとにかくすごい数の人である。時間としては午後の6時半で、夜を楽しむ人々が町へ繰り出しても不思議はないが、8時過ぎにやっと日が沈むこの地では6時半はまだ明るい。まだ明るいのにこんなに人が・・・という感覚である。

大半の人が、ホーム用の青いユニフォームを着ている。私も青いほうのユニフォームを着ていたが、友人のほうはツウぶりたいのか(別に彼がにわかファンというわけでは全然ない)、本当にそっちが良かったのか、アウェイ用の黒色のユニフォームだった。そこにお気に入りの選手の名前と背番号まで入れてもらっている。気合の空回りが激しい男であると思いつつ、私よりも身長が8センチ高い彼の背中を見ながらスタジアムまで歩いていった。

スタジアムの敷地内にたどり着いたが、観戦席に入るにはまだ少し時間があるらしい。そのへんをウロウロしながら、2日前の静かな雰囲気とは打って変わった賑わいを見せるスタンフォードブリッジを夢半ばで眺めていた。また、Tubeに乗る前に駅で買っておいたパンで軽い夕食をとった。

 

いよいよスタジアム内に入る。値段の高い席は、普段テレビで見るような角度と高さで観戦できる席である。ピッチ全体は見づらくとも間近で世界のトッププレイヤーを見たかったが、贅沢は言えない。この場にいられるだけで幸せである。

ウォーミングアップの時間になり、続々と出てくる選手たち。チェフが、オスカルが、マタが、ランパードが。サッカー好きには発狂もののスター選手たちである。だが、あまり観客が集まっていない。チケットはほぼ売り切れということだったから、たぶんいずれは埋まっていくいのだろうが、試合開始の10分前になっても下のほうの席は空いている。ちゃんとみんな時間に間に合うように来るんだろうか。

私たちのいるエリアはほぼ満席である。ここは「金持ちエリア」のようなものだったようで、現地の人よりは、観光客と思しき中東やアジアの顔が多く見られた。日本語も聞こえた。

ふと見ると、圧倒的多数を占めるチェルシーサポーター用の座席の端っこ、ほんの一区画だけ、アウェイチーム用の座席が設けてあった。ユニフォームの違いで分かるのではない。その区画に沿って、警備員がズラーッと並んでいるのである。

近年はそれほどでもないと聞くが、フーリガンとはこの国の悪しき文化である。その一端を見た気がした。

 

いよいよ試合開始。怒号に近い歓声がスタジアムを包む。いつの間にか満員の観客である。

試合レベルの高さもさることながら、最も感動したのは応援合戦である。選手に負けじと闘志をみなぎらせて拳を突き上げる。声を張り上げる。手を鳴らす。その全てが、地面から湧き立つように、空から覆いかぶさるように、私を襲った。テレビの上でのそれとは、比較のしようもなかった。

アウェイチームの応援も負けていない。圧倒的な数的不利をものともせず、彼らの声はこだまする。チェルシーびいきの私でさえ、思わず相手側に付きたくなった。

そういえば、どこを見てもビール片手に観戦、というイギリスには絶対にありそうな図がどこにもない。なるほど、きっと客席へのアルコールの持ち込みは禁止されているのだ。だから彼らは、試合が始まる直前まで観客席外にある売店でホットドッグとビールを飲み食いしていたのだ、そうだ、きっとそうに違いない。

観客のほとんどが男性であるのも日本とは違う。いや、日本でもいまだにサッカー観戦者のほとんどは男性なのだが、密度の違いといってもいいかもしれない。歴史の違いもあるかもしれない。ブーイング、ため息、そして歓声。その全てに、日本でサッカーを観戦していたときには感じられなかった、ある種の重みを感じた。

それは、サッカー母国としての誇りが携えた重みであり、100年を超える歴史に裏付けられた重みであり、祖父・父・息子が同じチームを愛することで受け継がれた血の重みである。

前半は1対1、後半に勝ち越したチェルシーが2対1で勝利した。開幕2連勝、幸先が良いと言えた。あっという間の90分、幻のようで、それにはあまりにも汗をかきすぎて声をからしすぎた90分だった。

 

試合が終わると一斉にみんなが帰るから、行きよりも人が溢れている。相変わらずグッズを売る人もいれば、今回は警察官が馬と共に出動している。人波に飲まれながら、きゅうきゅうの道を行き、きゅうきゅうのTubeに乗り、やっとホテルに帰ると、興奮もさることながら、それが疲労に打ち勝つこともなく、普段どおり眠りについた。

 

次の日の昼前に、キングス・クロス駅からエディンバラへ向かう電車に乗った。この駅も大きく、パディントン駅よりも近代的な感じがした。この日は朝から雨がぱらついていた。やはり、私たちは本当に運が良かったのかもしれない。

乗車券は大学生協で購入済だった。自由席で、どの時間の列車に乗らなくてはならないという指定はなかったが、5、6時間はかかるので出来る範囲で早い時間のものに乗っておきたかった。

ところが、Tubeに乗ってキングス・クロスに到着、電車の発着時刻を表示する電光掲示板を確認すると、あと10分程度でエディンバラへ向かう電車があるではないか。ここでもツイていた、と思いつつその電車に乗ろうと思ったが、ホームを探すのに少し手間取ったうえ、自分たちの持っている乗車券では他の乗客たちが通り抜けている自動改札を通り抜けられず、係員も傍にはおらず、そんなわけでその電車にはもう少しのところで乗れなかった。

残念。1時間半待たなければならない。それにしても、私たちはあの改札をどう抜けたらいいのだろう。私たちの乗車券はただのA4の紙である。合法的に購入し、合法的に印刷された乗車券のはずだが、磁気でその正誤を判別する自動改札機にその理屈は通用しそうにない。自動改札機を説き伏せることも出来なさそうだ。そこに感情は通っていないし、そもそも私たちにそれだけの英語能力も備わっていない。

1時間半の間にこのA4の紙から突然、モソモソと磁気が生えてくるなんてことも起こりそうにない。めんどうだったが、インフォメーションセンターの列を並んで駅員に尋ねたところ、どうやらもうひとつ別に、奥にある改札から入ったらいいそうである。

問題を解決した私たちは、9と4分の3番線を見に行った。言わずと知れた、ハリー・ポッターがホグワーツ城に向かう汽車に乗るときに利用するレンガ造りの柱である。

たしかにそこには、9と4分の3というプレートが貼られたレンガ造りの壁があり、その前は観光客でにぎわっていた。

あとは特にすることもなく、スターバックスでテイクアウトを頼んでダラダラと過ごした。1時間半なんて、ふたりなら割とすぐであった。

 

1時間半後、言われたとおりに奥の改札を通ってホームに入っていく。大きい荷物は貨物室に預けて、手荷物だけで車両に乗り込む。

さて、どこに座ろうか。私たちの乗車券は指定席ではない。だが、見渡す限り全ての座席に「RESERVED(予約済)」の札がかかっている。エディンバラまでは6時間ぐらいかかる。大きい荷物も預けてしまったし、6時間立ちっぱなしになるのだろうか。

ふたりの心中がソワソワし始めたころ奇跡的に、向かい合わせ4人分のボックスにひとつだけ札のかかっていない座席を見つけ、首尾よくそこに腰をすえた。