月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

サウダージ

「しまった、ポン酢がない」

冷蔵庫をのぞきながら、そうつぶやく。底冷えの日曜日。寒くなると事前の天気予報でわかっていたから、昨日のうちに買い物を済ませておいた。無論、こんな寒い日に、外に出なくてもいいように。予定では、あたたかなコタツに入りながら、晩ごはんにひとり水炊きを楽しむはずだった。

引っ掻き回すようにして冷蔵庫を探しても、ポン酢は見当たらない。あるのは買い込んだ食材に、マヨネーズやドレッシングや味噌や、そんなものばかりだ。念のために食器棚まで探してみても、やはりポン酢はない。こうなると、我が家に足りないのはポン酢だけのような気がしてくる。

「どうすっか・・・」コタツに横になり、天井を見上げる。白色蛍光灯が煌々と光り、直視できない。目をつぶると、飛行機のエンジン音が遠くでかすかに聞こえた。

静かだ。

底冷えの日曜日には、誰も活動しない。誰も活動したがらない。みんな家に閉じこもり、野菜をざくざくと刻み、とうふを丹念に等分し、暖房の効いた部屋で鍋を囲み、小さな幸せを噛みしめるのだ。ポン酢を買い忘れた俺以外、みんな。

先週の日曜日も鍋だった。そうだ、あのときポン酢を使い切ったんだ。あの日はふたりで鍋を食べた。彼女、一緒に鍋をつついた翌日、俺から去っていった彼女。どこで間違えたのか、もうわからない。鍋に入れる白滝を買い忘れたからかもしれないし、会計を彼女に任せたからかもしれないし、家まで手をつないで帰ったからかもしれないし、そんなことが原因ではないのかもしれない。でもたぶん、どうでもいいことばかり記憶して、忘れてはいけないことばかり忘れているのだろう。きっと。

何となくベランダに出て、ビンを捨ててあるゴミ袋をのぞくと、たしかにポン酢の空きビンが捨ててあった。かつて柑橘の芳香を放っていた黒い液体の面影はそこにはなく、透明で平凡な空きビンが、思い出のようにただ無残に転がっていた。