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月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

アゲハ蝶

チューリップだって、キスをしたい。

5月のある日、昼下がり。僕は唐突にそう思った。都心から車で40分ほどの場所にある自然公園。見渡せばたくさんの花。自分と同じチューリップたちが、我こそはと咲き誇る。黄色や赤色のチューリップは、真っ白な僕よりも彩り豊かで美しく見えるかもしれない。そんなことを考えながら。

僕は、南南東の方角で咲いている白いチューリップのことが好きだ。彼女はとても、しとやかだ。凛とした立ち姿。花弁にも気品を漂わせている。数多く咲いている白いチューリップの中で、彼女の存在感は群を抜いている。

だから、僕はそんな彼女と知り合いになれて、とても嬉しい。彼女は僕のために、その花弁を垂れて会釈してくれ、最近は言葉を交わすことさえできるようになった。

いい天気ですね、今日は子どもが多かったですね、風が強いと困ります、そんな風に、他愛ない会話が本当に嬉しい。

そして今日、久しぶりに一羽のアゲハ蝶が、僕たちのところへやってきた。ふらりふらり、あてどなく漂っているようで、思いついたように彼女のもとに落ち着く。そして彼女の蜜を吸う。彼女は黙って、凛として立っている。僕の胸が、なぜだろう、少し苦しい。

アゲハ蝶は、ハッとしたように蜜を吸うのをやめて顔をあげ、飛び立った。ふらりふらりと飛び去り、ゆらりゆらりと戻ってくると、今度は僕のもとに降り立った。

僕も黙って、蜜を吸われている。アゲハ蝶の口吻越しに、彼女が香った。彼女の香りを、僕はそのときはじめて知った。それは、未来を宿命で混ぜたような香りだった。やがてアゲハ蝶は飛び去り、再び戻ってくることはなかった。

僕はもう、アゲハ蝶の顔を覚えていない。だけど、それが残していった彼女の香りは、今でも覚えている。思い出すとドキドキする。5月はいつも、ドキドキする。

僕は彼女が好きだ。チューリップだって、キスをしたい。

いつか想いを伝えよう、僕はそう思った。