月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

愛が呼ぶほうへ

風はいい。風は自由だ。いつでも、どこにでも行ける。パスポートもいらない。そもそも、風であることに国境はない。好きなとき、好きな場所で吹く。ひとつ誤解を解いておきたいのだけど、風が冷たいとか熱いとか、あれは気温のせいであって、風のせいじゃない。

風の始まりを、君は知らない。自分でもわからないのに。気がついたら吹いていた。はじめは・・・そうだ。どこか海にいた。広い広い海だ。海鳥が海面すれすれを滑空し、群青の水面をのぞけば、銀色のひれを太陽に反射させた魚の群れが泳いでいる、そんなところ。同じような風景を繰り返しながら吹き続け、ついに陸地を目にした。

小さな島だった。木で組まれたボートに乗り、モリで魚をつく男たち。女は煮炊きをし、子どもたちはそれを手伝うか、砂浜に座って歌をうたっていた。その傍らで老人が、草笛で伴奏している。人生を思わせる、簡単で哀愁の漂う音色。島を巡って、次の場所へ向かう。

それからいろいろなところへ行った。低いところから、高いところから、砂漠に隊列を組むキャラバン、石造りの尖塔から漏れ聞こえる悲しみのレクイエム、打ち込まれる砲弾と悲鳴、そして歓声。灼熱の太陽の下で焼き払われるジャングルも、橙の葉に染まる数千里の城壁も、ペンギンが群れを成す氷の大地も、 みんな見た。

そして降り立つ、桜色の町。青い空と、あたたかな日差し。

町を見下ろす高台に、一台のベンチ。ここからの景色はいい。そのベンチには、ふたりの男女が座っている。町を見下ろして何か話している。たぶん手をつないでいるんじゃないかな。どんな人たちなのか、気にはなるけれど、近づいたり回り込んだり、そういうことはしない。それが風の掟。その代わり、どうしたらいいのか、ちゃんと知っている。

一瞬の沈黙。

顔を向け合ったふたりの距離は近づく。

今だ。

桜の花びらが宙に舞う。その中に、ふたりの姿は見えなくなった。