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月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

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僕はパソコンを開いて待つ。もうすぐ時間だ。外では聞きなれない声の鳥が、えさを啄ばんでいるのか、せわしく鳴いている。

静かな着信音。僕は受話器のアイコンをクリックして通話に出る。

「もしもーし」ややあって、彼女の声が聞こえてきた。ネット通話のイヤホン越しに聞く彼女の声は、少しだけざらざらしている。

「時間ぴったりだね」と僕は言う。たぶん彼女も、15分ぐらい前からパソコンを立ち上げて待っていたのではないだろうか。「へへーまあね」という彼女の声の後に、ネット通話特有の「空白」という音が聞こえてくる。僕はその音越しに、彼女がモジモジソワソワしていることを感じとる。僕は彼女がいま、どんな部屋の中の一部に取り込まれていて、傍らに何があり、どんな風な面持ちで落ち着かない様子なのか、なんとなく想像できる。彼女の住み慣れた部屋、僕が何度も訪ねた場所。

 

「元気?」で始まった僕たちの会話は少しずつ、いつもの調子を取り戻していった。異国で暮らす僕に、彼女の声と日本語は優しく響く。

「ごめん、何て言ったの?」どちらも時々聞き返す。その度に、数秒、あるいは数十秒前から話していたことを繰り返す。進んでは戻り、また進み、少しだけ戻る。僕たちみたいだと思う。大切なのは、進んでいるということだ。大切なのは、相手の声を聞けるのが嬉しいということで、相手に声を届けたいということだ。

 

「海底ケーブルを伝って、俺の好きだよってことばを運んでくれるなんてすごいことだよな」
「ごめん、何を運ぶって?」
ほら、進んでは戻る。
「いや、だから、俺の大好きだよってことばだよ」
「さっきは好き、だったのに、大好きに変えてくれたんだね」と彼女は楽しそうに言う。

まったく、こんなに彼女のことが好きなのに、もうすぐ電話を切らなくてはいけないのだ。正午の太陽に照らされた部屋の中で僕は、いま日本は深夜で、彼女は明日の朝からバイトがあることを知っている。