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月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

今宵、月が見えずとも

「ごめんな」と言われた。幸せにできなくて、と。

別れ話をした帰りの電車は、どこか舞台めいて見える。人もまばらな23時の電車に、わたしは一番不幸な役を演じるのだろうか。虚ろな目でスマホの画面を追っているわたしの斜め前のサラリーマンは、こんな風に悲しくてみじめな思いをしたことがあるのだろうか。そう言うわたしの、光を失った瞳の先には、電車が曲がるたびに同じ方向に同じ角度だけ揺れるつり革の列が映っている。整列し、誰にもつかまられることのないつり革は、唐突に与えられた自由に困惑し、孤独になっているように見えた。

電車が線路の連結部を通過する振動音以外に何も聞こえない静かな車内に、次の駅を知らせる鼻にかかったアナウンスが響く。ブレーキ音。ドアが開く音。新たな世界の始まりみたいだ。だけど、本当は何も始まらない。終わりもしない、何も変わりはしない。

車内に一組のカップルが入ってきた。ふたりはわたしの視界ギリギリのところに座り、ひとつのイヤホンで何か音楽を聞きながら手をつないでいる。負けた気はしないけれど、「わたしには資格がない」と思った。
だから窓の外に視線を移した。そこには何も見えない。闇さえも。ただ目を背けたかったはずの、煌々と照らされた車内が反射して見えた。別れたくない理由を探すたびに別れなくてはいけない理由が見つかってしまったわたしたちみたいだ。いや、今はもう、「わたしたち」と括ることさえできない。

子どもの名前はルナがいい。そう思っていた。彼の不器用で青白い笑顔のように、闇に浮かび闇を愛したわたしたちのように。そう、月のように。

いくつの駅に停まっただろう。こんな夜には、星も月も微笑んではくれない。「あなたが選んだ道だから」沈黙を決め込んだ夜空がそう言い聞かせてくる。わたしは目を閉じて、わたしのための闇に生きようとする。彼らの世界に微笑まなかった月は、わたしの闇に、たしかに在った。