月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

東京デスティニー

田舎者に限って、覚えたての地名や道の名前をやたらと口に出したがる。いま目の前に座っている男もそうだ。口説きたい女なのか、惚れさせたい女なのか、こんな得体の知れないバーにやって来て、得意げに何かを話している。女を連れて行くなら、もっと気の利いた場所もあるだろうに、そんなところに、住み慣れない土地で必死に生きようとする男の哀しみを感じる。

彼女は、カウンター越しに客の様子を伺いつつ、拭いていたグラスを静かに棚に置いた。やたらとしゃべる客を、彼女はあまり好きではない。追い出しもしないし咎めもしないが、彼女の中には明らかに、そんな客に対する嫌悪の感情が生まれている。彼女にとって、客がどんな酒を飲むかは重要ではない。強いアルコールを嗜もうが下戸だろうが、その客が何かに導かれ、何かを求めてこの場所を訪ねてくれるのなら、それ以上何を求める必要があろうか。彼女が落としていってほしいのは金ではない、心だ。わだかまりを解きほぐしていきたい者にも、行き場のないストレスに苛まれた者にも、高まった感情を抑えられない者にも、そこには他者の関知できない品格がある。崩壊したプライドも、切り裂かれた自尊心も、二度と味わうことのない陶酔も、この東京でしか生まれない全ての感情が混ざり合い、この店が成り立っている。この巨大都市の圧倒的な強さは、完全なまでの混沌にあるのだ。

だからこそ、余分なおしゃべりはこの場にはそぐわない不純物となる。この店は、客たちが残していく感情のしこりや綻びの上で回っている。しかし、彼のような駄弁はこの場に何も残さない。むしろ、何かを強引に奪っていく。彼女とその客がひっそりと味わい、守り続けているものを壊していく。その感覚が、彼女の癇に障るのだ。

それでもこの店は回り続ける。ひとりの男が奪っていったものなど、即座に新たな懊悩によって満たされる。

この街のエネルギーは、尽きることを知らない。