月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

その4‐2(パリ)

このバスはオペラ座で降ろしてくれるが、私が今夜の宿泊先にたどり着くためにはまだまだミッションが残されている。ひとつめが、メトロ(地下鉄)のオペラ座駅を見つけることだ。そこからメトロに乗り、一度乗換えをして宿泊先の最寄り駅まで行って、そこから(地図を見た感じだと)10分ほど歩いてミッションコンプリートなのだ。とにかくメトロの入口を見つけなければならない。

私はパリの地図と方位磁石を交互ににらみながら進むべき道を探す。しかし、正直言ってよくわからない。やはり、夜は本当に道がわかりにくい。地図の存在も方位磁石の存在もむなしく、とりあえず私は人の多そうな道までカバンを転がして歩いていった。

果たして、(今日が土曜日だからかもしれないが)この時間にこんなに人がいるなんてやっぱりパリは都会だと、先刻思ったことの「車」の部分を「人」に換えただけの感想を抱きつつ、勇気が出るのを待った。

そして勇気パラメータが満タンになったところで、通りかかったひとりの老人男性に尋ねた。「メトロのオペラ座駅はどこですか?」

彼が英語を解するとは期待していなかったが、オペラやメトロといった単語からこちらの状況を察してくれることを期待した。

彼は完全に私の期待に応えてくれ、何も言わずに親指を立てて「こっちだ、ついて来い」と道を示してくれる。私みたいな道がわからずに困っている人間にとって、そんなかっこいい仕草をできるおじいさんに示された道は、もはや私の未来そのものであるようにさえ感じてしまう。

彼についていくと、オペラ座らしき建物が建っているのが見えた。「オペラ座ですか?」と尋ねると、「そうだ、オペラ座だ」と答えてくれたが、オペラのぺの部分の発音がにごっていた(ちなみに、パリのパの部分もにごっている)。駅の場所だけでなく正しい発音まで教えてくれるとは何と素晴らしい紳士だろうか。私も数十年後には、日本語の雨と飴の発音の違いを外国人観光客に教えてあげたいと思う。

彼や私に並んで歩いていた大半の人たちも地下のオペラ座駅に続く階段を降りていく。彼とお別れし、次に私は窓口で切符を買う。切符はばら売りで買うよりも、10枚1セットの「カルネ」なるものを購入したほうが得だという情報を仕入れていたのでカルネを1セット買い、メトロに乗り込んだ。

パリのメトロはわかりやすい。路線別に番号と色が分けられており、駅構内にも路線図や、このホームにはどっち方面に向かう電車が来るのかといったことがきちんと掲示されている。

また、私の地図はメトロの路線図も載っている優れものだったので、メトロの乗り換えには一切迷うことがなかった。偉業と言える。

23時過ぎでも多くの人が乗っており、治安の悪さや心細さを感じなかったことも嬉しかったことのひとつだった。

私はオペラ座からセーヌ川を越えて(くぐって)モンパルナス地区で降りた。宿泊先までの道は単純で、駅を降りて大体西にまっすぐ行けばいい。今度はしっかりと地図と方位磁石を駆使して歩いていったが、当てにしていた通り(道)の名前が見当たらず、方向感覚に関してはまるで自分を信用しておらず、夜遅くにかばんを転がしながら間違った方角に無駄に歩くことを嫌った私は再び、店先のテーブルに座って酒を飲みながら談笑している男性二人組に道を聞いた。今度の彼は英語が達者で、的確に道を教えてくれた。悔しいので言い添えておくが、私のとっている道はちゃんと正しかった。

 

ホテルに到着する。ホテルといっても安宿である。3、4階建ての建物に自分がインターネット予約したホテルの名前が書いてある札がかかっていて、その下に扉がある。しかしその扉に「受付はあちら」という矢印付きの紙が貼ってある。

私の悪いクセが出た。じゃあこの扉は何なんだろうと思って引っ張ってみると、扉には鍵がかかっていて、次の瞬間扉の内側でものすごいい勢いで犬が吠えてくるのが聞こえた。扉越しなので姿は確認できないが、その犬はたぶんこっちに跳びかかってきてたんじゃないかと思う。

寝ていたのかもしれない。すまないことをしたと思いつつ正規の入口から受付に入り、私は素直に宿の主人に詫びた。移民系の顔立ちをした彼はおうように「ノープロブレム」と言い、私たちはチェックインの手続きを始めることになる。

明日の朝は早い。8時前にモンパルナス駅を出発するTGVに乗るため早起きしなくてはいけない。事前に部屋も予約してあるし、手早くチェックインを済ませて寝ようと思っていたが、あろうことか彼は49ユーロでベッドと洗面台だけの部屋か80ユーロでトイレとシャワーも付いている部屋かどちらがいいかと尋ねてくる。

私はインターネットでどちらの部屋を予約したか覚えていないが、今日はもう遅いからシャワーは必要ないし、そもそもシャワー付だとずいぶん高いし、安いほうで良いと考えた。

が、その考えている時間の間に彼は「見せてやるからついて来い」と言い放つ。

私はもう疲れている。「いや、安いほうで、49ユーロのほうで」と懇願する私をよそにそのオッサンは「ノープロブレム、ノープロブレム」と繰り返し、一日分の移動の疲労が溜まった私に階段を上り下りさせた。

オッサンは49ユーロ(ベッド、洗面台のみ)の部屋と80ユーロ(トイレ、シャワー付)の部屋を見せ、受付に戻り「で、どっちにする?」と聞いてきたので、私は5度目の「49ユーロ」を発動した。

これで部屋は決まったが、明日の朝7時にチェックアウトする旨を伝えておいたほうが良い。これ以上会話が伸びるのは嫌だったが「明日は7時にチェックアウトします」と言うと、オッサンは何がわからないのか知らないが何かがわからないらしく、私が紙に「AM7.00 CHECK OUT」と書いても何かが気に食わないらしく、「ワンミニットゥ」と言って誰かに電話をつなぎ始めた。

息子だか友人だかに電話をつないだようで、私は電話越しに見知らぬオッサンver.2と会話することになったが、こちらもオッサンよりは英語がわかる程度のレベルでしかなく、なかなか大変だった。

なぜか一度電話が切れてしまい、いい加減私も寝たかった(そのときには時計はすでに0時半を過ぎていた)ので「私は疲れていて寝たいのだ、そして今日の7時ごろにチェックアウトする」と伝えた。私としてはそれでチェックメイトのつもりだったが、日本とフランスでは少しルールが違うらしくオッサンは再び「ノープロブレム、ワンミニットゥ」と言って電話をつなぎ始めた。

私は半ば絶望的な気持ちになり、ホテルの予約サイトで「対応言語:フランス語、英語」と表記した誰かを呪いつつ受話器を受け取った。

そこでは先ほどの息子だか友人だかが「ハロー」とへらへらしており、私は一方的に「Tomorrow, seven o’clock, check out, OK?」と伝えた。さすがに受話器の彼はunderstandしてくれ、ついに受付のオッサンにも私の言いたかったことが伝わったようだった。

 

30分の死闘を終えてついに念願のルームキーを受け取って部屋に入り、部屋着に着替える。上を脱いで下を脱いで、上を着てから廊下にあるトイレに向かうべく部屋を出た。下はパンツしか履いていなかったが、特に他の宿泊客がいる気配がなかったので問題ないだろうと思ったのだ。

ドアがばたんと閉まったときに私の頭に閃光が走った。

「インキーしたんじゃないか」

建物のつくりの部屋のつくりもさほど立派なものではないし、それはさすがにないかなと思いつつドアを引いてみたが、ドアは開かない。押し戸だったかなと考え直して今度はドアを押してみたがそれでも開かない。

しまったと思ってドアをガタガタしていると斜め向かいの部屋から人が出てくる。人いるのかよ。私はTシャツにパンツ1枚の格好でインキーしたまぬけなボーイである。

インキーをしてしまってドアをガチャガチャしている私に救いの手を差し伸べてくれるのか、あるいはうるさいと文句を言うつもりなのかと考えたが、そのどちらでもなく彼は気弱そうな不安そうな顔をして私に何か聞いてくる。

今の私に他人の不安を解消してやれる力があるとは思えなかったが無視するのもつれないし、聞きなおしてみた。よく見ると彼もまだ若く幼そうな顔立ちをしている。何かの事情で家出をしてきたのだというような風貌や体の線の細さだ。

そんな彼は、一日分の疲労をためながら部屋のドアを開けられず、もともとの目的であるトイレにも行けずにパンツ1枚で困っている私に向かって「シガレット?ファイアー、ファイアー」とジェスチャーで言ってきた。

彼は、みすぼらしいレベル68の私に向かってタバコに火を点けるライターはないかと尋ねてきたのだ。このホテルにいる人間は皆狂っているんだろうか。

それでも彼の顔に浮かぶ繊細な表情に、冷たい返事をするのはなぜか気が引けて、ある程度丁寧にライターを持っていない旨を伝えた。受付に行けばあるかもねというアドバイスも付け加えたが、そのアドバイスをした瞬間に彼以上に私が受付の助けを必要としていることに気がついた。

受付につながる階段にゆるりと体を向けた彼の横を、私は疾風のごとく駆け抜けた。階段を一段飛ばしで駆け下り、先ほどのオッサンのもとに再び舞い戻った。

チェックインについてさえ満足に会話できなかった私たちがインキーについてどれだけ意思を通じさせられるかという不安がないではなかったが、パンツしか履いていない私がいつまでも公共の廊下をウロウロしているわけにはいかない。今度は違う部屋から女性が出てくるかもしれないのだ。

私はみっともない格好をオッサンの前にさらし、「鍵を部屋に置いてきてしまったんですけど」とこれまでの生涯でいちばん大きいジェスチャー付きで伝えると、なぜかそれは一発で伝わり、オッサンはやはり「ノープロブレム」とおうように言い放って私の部屋の鍵を開けてくれた。

オッサンは、私の部屋の鍵を開けたあとには違う青年にライターをせがまれる。ふたりはどうやらフランス語で話しているようだったが、母語を操るもの同士でさえ、青年はオッサンにやや翻弄されているように見えた。

夜も更け始めてハイになりつつあった私は、止まらない笑いを押し殺しながら、そのまま束の間の休息を得た。