月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

たった1枚、一円玉が落ちていた理由について考えてみた

 日常で一円玉を使う機会というのは、ものすごく限られている。それは恐らく、財布をかさばらせる厄介者として扱われながらも、次の出番を今か今かと待機している。スーパーか、コンビニか。いずれにせよ、一円玉だけが道端に落ちているのは理にかなっていないように見える。だけど、実際に落ちていた。そのワケはきっと、こんな風。

パターン1

一匹のネコが、三菱の電子レンジが入っていた段ボールに座っている。その段ボールは、住宅街にある無人直売所の前に置かれていた。直売所では、だいたい白菜とキャベツ、時々ナスが袋一杯に詰められて100円で販売されている。

ネコはもちろん不満である。味も見た目も悪そうな下等な野菜が100円という値をつけられ、一方で自分には値がついていない。食べ物もない。屋根もない。雨が降ってきたらふつうに困るんですけど。

 

だから昼間のうちに、もっと快適な場所を探してみる。

公園の茂みには、ガキどもが投げたボールが何の前触れもなく飛んでくる。非常にポヨンポヨンしているが、不意をつかれると痛いような気がするし、ビックリする。

マンションの駐車場には屋根のせいで陽が当たらず、だんだん気が鬱々としてくる。自分は野菜以下だという事実にすでに落ち込んでいるのに、まだ気が滅入ることができるとは、自分も捨てたものではないと思う。まあ、捨てられてるんだけど。

 

良い場所は見つからない。だから不本意でも、直売所に戻る。

待った。

おじいさんが通る。

待った。

女の子が通る。自分のことを少しだけ撫でて、また去っていく。

待つ。

夕方のことだった。

黒いアディダスのジャージを着た男が、スッとやって来て、サッと抱き上げてきた。175cmぐらい、くせ毛交じりの茶髪で、ピアスをしている。ジャージの左ポケットには、ペットボトルと多分おにぎりが入っている。右ポケットはチャラチャラ鳴っている。男は何かしゃべっている。

「omae kawaii naa. uchi ni kuru ka?」

こっちとしては、抱き上げられたときに後ろ足が右ポケットに引っかかったせいで落ちてしまった一円玉のことを教えてあげたい。だから鳴いてみた。おい。

「souka. omae mo ore no koto ga suki nanoka」

 

何かひどい勘違いをしているのか、一円玉は100円の野菜詰め合わせよりも価値のない自分よりもさらに価値のないものなのか、とにかくそんな風にして、またひとりネコ飼いさんが増えていく。

 

パターン2

ふたりは大学院の、とある発表会で出会った。ともに同じ大学で同分野の研究をしていたが、ゼミが違っていた。花子さんにとって、初めて見る太郎さんの発表は衝撃だった。その作りこまれたデータと論理の緻密さ。「なんて有能な人なのだろう」と花子さんは思った。

太郎さんは花子さんの「人の役に立つ新しい発見がしたい」という情熱に惹かれた。周囲を巻き込むその熱量は、太郎さんに足りていないものだった。

 

太郎さんにとっての初めての彼女。花子さんにとっての3人目の彼氏。太郎さんはベストを尽くした。一緒に出かけるときには、きちんと下調べをした。道に迷わないし、乗り継ぎを間違えることもない。出かけるばかりではなく、研究内容についてカフェで熱く語り合うこともあった。花子さんが嫌がるような男女差別につながる発言は懸命に避けた。

花子さんにもその善意は伝わっていた。しかし、一部の隙もない付き合いに、戸惑いがあった。迷ってもいいと思う。道草をすればいい。研究内容について語っているとしても、論理の破綻をいちいち指摘されたくない。でも太郎さんに、花子さんの心の底に潜む不満を読み取れというのは、酷だったのかもしれない。

 

「さっきごはん食べたときのお金。花子さんに346円多く出してもらってたから」そう言って太郎さんは、コンビニでつくってきたばかりの小銭を花子さんに渡す。花子さんはその手を払った。9枚の硬貨が散らばる甲高い音が、コンビニの駐車場に響く。

「どうしていつもそうなのよ」と花子さんは泣く。太郎さんにはわからない。いつもこうだったのに、なぜ突然怒るのか。

いつもこうだったから花子さんは怒ったという論理は、まだ太郎さんには通用しない。

花子さんは去っていく。太郎さんは散らばった小銭を拾い集める。1円足りない。だけど今はそれどころではない。

 

太郎さんが諦めたのが、花子さんの心ではなく一円玉であったことに、ぼくらはホッとしてよいと思う。

 

パターン3

少年は興奮を隠しきれない。いま母の手から渡されようとしているのは、紛れもない百円玉だ。銀色にきらりと輝く百円玉。その存在感は、赤茶けた十円玉や安っぽいメッキの五円玉、それに薄汚れた銀色の一円玉とは一線を画している。

「お手伝いありがとう」と母に渡された百円玉は、貯めてきたお駄賃を両替したものだ。生まれて五年。おつかいのおつりをコツコツと貯めてきた少年は、自分の百円玉を手にしたことがなかった。一円と五円と十円を、少しずつ積み重ねてたどり着いた百円。

 

少年はテーブルの上に、自分の全財産を並べてみた。数枚の一円玉と十円玉、そして燦然と輝く1枚の百円玉。百円玉の輝きを見つめた数分の後、少年は意を決した。その硬貨をつかみ、走る。「いってきます」もそこそこに、「どこ行くの、気をつけてね」という母の声を背に受けて。

 

走って2分の場所に、そのワンコイン自販機はある。息を切らしながら、少年はその自販機を見上げた。これまで、彼はそのボタンを押せなかった。お金も背丈も足りなかった。

その悔しさも今日でおしまいだ。一番下のカルピスのボタンには、背伸びをすれば届く。そして、ポケットには百円だ・・・あれ?

 

ない。どこだろう。三回ポケットを探ってもない。靴の中にも、パンツの中にもない。

幼稚園で友達に自慢して、気になっているサヤちゃんにもアピールする。そんなバラ色の計画は、失った百円玉探しのために消えた。 

そして少年は泣いた。なぜボクなのだ。なぜ今なのだ。泣きながら家に帰る。風のように駆け抜けた道を、絶望が歩く。明日は幼稚園を休もう。

 

しかし、彼は落ち込む必要がない。家に帰れば、百円玉はテーブルの上に置かれたままになっている。代わりに一円玉が1枚消えている。勇んだあまり、彼は間違えて一円玉を手にして出かけてしまったのだ。

そのなくした一円玉も、もう一度自販機に向かう途中、タバコ屋さんの角で見つけられるだろう。

 

パターン4

メタリックブルーのBMWを走らせながら、室井はラジオでそのニュースを聞いていた。

「Welcome to No Cashless World」と叫びながら、謎のレーザー銃を撃ちまくる老人団体がワシントンD.C.に現れた。そのレーザー銃に照射されたスマホやクレジットカードなどに登録されている情報はその場で現金となり、持ち主の周りにあふれ出す。

今朝のニュースでは、スマホを片手に通勤している男のスマホから突如、大量のドル札や硬貨、外貨預金で利用していたであろう中国元とユーロ札が飛び出す様子が映し出された。あわてる男と札に群がるホームレス、動画撮影をする通行人で、現場は混乱に陥った。そして、動画撮影していたスマホも次々とレーザー銃の餌食になっていく。

同様のニュースがヨーロッパの各都市でも報じられ、それは東京でも始まっていた。

「現金世界万歳」を謳う老人団体が新宿駅西口に現れるやいなやレーザー銃を撃ちまくり、いつもは人波が作る新宿駅構内を、札と硬貨の海に変えた。進行するキャッシュレス社会をもてあます高齢者たちは、狙いも生きがいも定まらぬままにレーザー銃をぶっ放す。今日を以って日本の秩序が終わり、若者たちの未来は全国土を対象とした復興から始まるだろう。しかし道楽の絶えて久しい彼らの日々に、この刺激的な玩具は手離せない。

 

室井は道玄坂の信号で止まった。そこにひとりの警察官がやってきて、手帳を見せながら窓を開けるように指示してくる。室井が窓を開けた瞬間、その警察官は「現金世界万歳」と叫びながら、車内の隅々までレーザーで照射した。室井のBMWは、たちまち札と硬貨で埋まり、室井は逃げ出すこともできず圧死した。あとに残されたBMWは夜のうちに、カネに困っている人間と退屈に困っている人間によって叩き壊され、中から溢れ出てきた札と硬貨は奪い去られた。

残ったのは、車の残骸と圧死した室井、そして心ある青年が、奪い去ったカネの中から弔いに投げつけていった一円玉だけだった。