月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

洗濯バサミが割れた瞬間に考えたこと

一人暮らしをすると、図らずも長いこと一緒にいるモノがけっこう多くある。

今回でいうと、洗濯バサミがそうだ。ベランダでシーツやバスタオルなんかを干すときに使う、ちょっとゴツめのほうの洗濯バサミだ。使おうと思ってグッと手に力を込めた瞬間に割れてしまった。

あのむなしさはなんだろう。あの「やっちゃった」感。竿にタオルを挟もうと思って洗濯バサミを開こうと入れた力が、途中で空を切るあの感触、「無」の感触。
悪いことをしようとしたわけでもないし、なんなら悪いことをしたわけでもない。消耗品である以上、いつかは壊れてしまう運命だった。だけど、たしかに自分が手を下して力を入れたことによって洗濯バサミは割れてしまった。

大学生活を始めたときからだから、もう6年になる。その間この洗濯バサミは、大阪と京都の暑い夏も凍てつく冬も越し、ときには台風の雨風に打たれ、紫外線を浴び続けた。

それだけではない。

主の見たくもない姿を目にすることや、聞きたくもない話が漏れ聞こえたこともあったろう。

6年間。

今日である必要もなかったけど、明日である必要もなかった今日、洗濯バサミが割れた。その瞬間、僕が感じたのは「ごめん~」だった。

「ごめん~」と思ったのは、壊してしまったことよりも、6年の間に洗濯バサミに感謝を伝えたことが一度でもあったかあやしいからだ。

「よくここまでずっと、挟んだものを離さないでいつづけてくれたね~」と。

洗濯バサミというと、昔『リンカーン』という番組で芸人が乳首を洗濯バサミでは挟まれて「痛え痛え」と叫んでいると、ダウンタウンの松本氏が「お黙りなさい。乳首が痛いから、あなたたちの洗濯バサミは飛ばされないのですよ」と言っていた。ボケだが、たしかにそうだよな~と納得したことを覚えている。

僕が感謝すべきは、洗濯バサミだけではなかった。人間が挟まれたら痛いはずの洗濯バサミに挟まれ続けながら、きちんと乾かされてきた数々の洗濯物にも、ありがとうを伝えなければならない。

関わるすべてに感謝しつづけるのは大変だ。我々はそこまでヒマではない。
でも、日々の折々にそのきっかけを見つけることは悪いことではない。

月が綺麗でも、10円拾っても、お化粧のノリがよくても、冷房の聞き具合がちょうど良くても、それは何でも良い。きっかけを見つけられたということが重要である。

 

洗濯バサミへの感謝は尽きることがないが、感謝もそこそこにしないと多少不便だ。洗濯バサミを補充しなければいけない。
だからこの一週間以内に、僕の家の近くの100均に張り込んでいれば僕を見つけられると思います。