月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

カゲボウシ

「青春」ということばに、わたしは男の子を感じる。周りの友だちからは「なんで?」と言われた。青春に男も女もないでしょ、と。たしかにそうなんだけど、わたしはそのことばに、年頃の男の子が鏡の前でヘアワックスの使い方を練習したり、放課後に声を枯らして走り続けたり、性欲と現実の狭間で悶々として眠れなかったりする(であろう)姿を感じる。

もちろんわたしも十年ほど前に、ちょうどその時期を謳歌していたし、当然その尊さに気がついたのは、当時ではなくて今だったのだ。わたしが自分自身の青春を知ったのは今で、当時はやっぱり同年代の男の子の青春を感じていた。どうしてだろう、クラスの男の子たちを見て「青春しているな」と感じていた。

それは、好きだった男の子と付き合うことになって、デートしていたときもそうだった。彼がメールで告白してくれたときも、少し汗ばんだ左手で私の手を握ってくれたときも、わたしから「ゴメンね」と伝えたときも、わたしの心の80%はその場にあって、残りの20%はどこか他の場所から相手の男の子を見て「これも青春の1ページになるんだな」と観察していた。斜に構えていたわけではない。でも芯の部分がどこか冷たくて、あの日ふたりで嘘のように大きな夕陽を見て、彼が無言でわたしを抱きしめたとき、わたしはわたしたちの隣に宿る影を見て、ドラマみたいだと思った。

わたしたちの影は、ひとつに重なっていた。わたしが重ねたかったのは影だけじゃないのに、きっとそれは彼も同じなのに、でもわたしはどこかで諦めていた。彼にその勇気はない。それも青春。そう思っていた。

年齢を重ねることは、後悔を重ねることだと聞いたことがある。そうなのだろうか。わたしは彼を思い出すとき、その影を思い出す。その輪郭。詰め襟と立ち上がった髪の毛と、ダラリと垂れた靴ひも。わたしの青春に後悔があるとするならば、もう彼の顔を思い出せないことなのだろう。