月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

サボテン

「ねえ~、ヒマ~。この渋滞どうにかなんないの~?」

「野田から東が丘まで10km渋滞だってさ。こりゃしばらくかかるな」

「なんでこんなとこで渋滞するのよ~。ねえ~、ヒマ~、つまんない~」

「イライラすんなよ。ほら、チョコやるからさベイベ」

「べつにイライラはしてないし、てか何、そのベイベっていうの。うわ、てかこのチョコちょっと溶けかかってる、ヤバイって!」

「ティッシュいる?」

「ルール違反、それ。車の中でタバコ吸わないでって言ったじゃん!ゆうた、ほら、消して!窓開けて!」

「テレビに影響されすぎだって。タバコの一本や二本ぐらい大丈夫だよ。大体タバコなんて、ずーっと昔からみんな吸ってきたんだぜ?それをこの何十年かで急に目の敵にしてさ・・・」

「ささ、いいからいいから。あなたの御託はいいですから、ストップ・ザ・タバコ」

「これ最後の一本にするから、わかったからこれだけ吸い終わらせてくれって」

「て言って、その一本が全然吸い終わらないじゃない」

「いやだって、ここまで3時間運転して、挙句の果てにこの渋滞だぜ?タバコぐらい吸わないとやってられない」

「いくみのとこのカレシは、いくみがタバコ嫌だって言ったらすぐやめてくれたって言ってたよ」

「よかったなあ」

「あー、そうじゃなくて!ゆうたも禁煙したら?」

「来年、気が向いたらな。あ、この曲!最近よく聞くよな~」

「・・・」

「な、ありさ」

「・・・」

「催眠術にでもかかったかな?あーわかったよ、ゴメン。もう車でタバコも吸わないし、禁煙のことも前向きに検討するよ」

「よーし、なら許して進ぜよう。ところでさ、私たちの会話、文章でいうところのかぎかっこごとにしりとりしてるの、みんな気付いてるかな?」

「なあ、どうだろう。みんなそんなの気付くほどヒマじゃないんじゃねえの?そんな凝ったことするの、渋滞してる俺らぐらいだよ」

「よっぽどヒマかよっていうね」

「ねみぃ~。お、そろそろ渋滞抜けるぞ、このしりとりもビシッと終わらせてくれよ、ありさ?」

「サボテン」

サウダージ

「しまった、ポン酢がない」

冷蔵庫をのぞきながら、そうつぶやく。底冷えの日曜日。寒くなると事前の天気予報でわかっていたから、昨日のうちに買い物を済ませておいた。無論、こんな寒い日に、外に出なくてもいいように。予定では、あたたかなコタツに入りながら、晩ごはんにひとり水炊きを楽しむはずだった。

引っ掻き回すようにして冷蔵庫を探しても、ポン酢は見当たらない。あるのは買い込んだ食材に、マヨネーズやドレッシングや味噌や、そんなものばかりだ。念のために食器棚まで探してみても、やはりポン酢はない。こうなると、我が家に足りないのはポン酢だけのような気がしてくる。

「どうすっか・・・」コタツに横になり、天井を見上げる。白色蛍光灯が煌々と光り、直視できない。目をつぶると、飛行機のエンジン音が遠くでかすかに聞こえた。

静かだ。

底冷えの日曜日には、誰も活動しない。誰も活動したがらない。みんな家に閉じこもり、野菜をざくざくと刻み、とうふを丹念に等分し、暖房の効いた部屋で鍋を囲み、小さな幸せを噛みしめるのだ。ポン酢を買い忘れた俺以外、みんな。

先週の日曜日も鍋だった。そうだ、あのときポン酢を使い切ったんだ。あの日はふたりで鍋を食べた。彼女、一緒に鍋をつついた翌日、俺から去っていった彼女。どこで間違えたのか、もうわからない。鍋に入れる白滝を買い忘れたからかもしれないし、会計を彼女に任せたからかもしれないし、家まで手をつないで帰ったからかもしれないし、そんなことが原因ではないのかもしれない。でもたぶん、どうでもいいことばかり記憶して、忘れてはいけないことばかり忘れているのだろう。きっと。

何となくベランダに出て、ビンを捨ててあるゴミ袋をのぞくと、たしかにポン酢の空きビンが捨ててあった。かつて柑橘の芳香を放っていた黒い液体の面影はそこにはなく、透明で平凡な空きビンが、思い出のようにただ無残に転がっていた。

ミュージック・アワー

目覚まし時計を使わなくなったのは、大学生になってからだ。スケジュールもアラームも、iPhoneがあればいい。朝6時半、「ゆらぎ」で目覚めたわたしは、まずPCを起動させて、Spotifyを開く。忙しい朝、少しだけ優雅な気分にさせてくれるプレイリスト。ときどきCMが入るけど、気にはならない。気にするほどの注意を払って音楽を聴くほど、わたしの朝は暇ではない。コーヒーを沸かして、トーストかヨーグルトを食べる。朝食は決して抜かない。これはポリシーと言っていい。朝食を食べる人は、そういうポリシーなのだと思う。漠然と朝食を食べている人なんて、いないと思う。

歯を磨いたりメイクをしたりしている間にも、音楽は流れる。はじめは、洋楽のミックスリストもオシャレだと思っていたけれど、好みじゃない声の歌が流れると落ち着かなくて、Spotifyで流すのはインストだけにしてしまった。

そして、プレイリストがひとつ終わるぐらいのころに、身支度は終わる。ワンルームの姿見を確認、PCをシャットダウン、それからイヤホンを耳に差して、駅に向かう。イヤホンのもう片方はもちろん、iPhoneに差さっている。液晶の右上が少し割れている、わたしのiPhone6sには、お気に入りのセットリストが収まっている。ほとんどは好きなバンドの、ライヴセットリストだ。今日は雨が振りそうだから、4年前に行ったツアーのセトリにしよう。

あのときはまだ大学生だった。英語の授業で知り合った友だちを誘って、一緒に行った。その日は春の嵐で、いつもより張り切ったメイクも、時間をかけたヘアスタイルも、会場最寄り駅の構内を出た瞬間に台無しになった。化粧室の鏡に映るわたしは、グシャグシャだった。ライヴ前だというのに、全然気分が上がらない。なのに彼らがステージに上がったときの照明、そして歓声・・・。

8時4分発、3番線の急行。今日からまた、一週間が始まる。

ヒトリノ夜

ひとりの夜に何をしているか。

これはその人の人格をよく表すと思う。本棚は人なり。宵もまた、人なり。

だからわたしは、めぼしい男の子を見つけると、その人と本当に付き合いたいかどうか判断するときに、必ずこう聞く。

「ひとりの夜には、何をしてるの?」

簡単なこの質問は、便利なことに、おもしろい人間とちっともおもしろくない人間を、見事に二分してくれる。

「マンガ読んでる」ちょっと違う。

「酒飲んでる」何かめんどくさそう。

「料理を作り置きしてる」夫にするなら80点、でも彼氏にするには55点。

もちろんその答えですべてを判断するわけではないけど、でも本当に、世の中のみんなはどうやって、ひとりの夜を過ごしているのだろうと思う。

ひとりの夜ほど、わたしの感情をむき出しにさせるものはない。「ひとりって、なんて自由なのだろう」と、胸いっぱいに喜びをあふれさせて、ひとり鍋をつつく夜もあれば、ヘッドホンから聞こえるビリー・ジョエルの声で感傷にひたるときもある。風邪を引けば、夜が二度と明けない気がする。好きだった人を嫌いになった夜の闇は深い。

ひとりの夜を重ねることの価値は大きい。わたしはそう思う。だからわたしは、頻繁に誰かと夜を遊び歩いては、SNSに写真や動画を投稿する彼らを可哀想だと思う。彼らは今日もまた、わたしたちの心を巣食う幼稚さから逃れるチャンスを失った。

川沿いの遊歩道に吹く9月の夜風は、わたしの屈託を少し撫でてから、軽やかに吹き去った。見渡せば、手をつないだカップルがいくつか見える。彼女たちには、そのすべてが愛おしいのだろうと思う。身長差が嬉しいのだろうと思う。慣れない歩幅がくすぐったいのだろうと思う。風になびく髪が誇らしいのだろうと思う。わたしにも、わかる。

だからわたしは、北の空を見上げる。カシオペヤ座。自身の美貌を吹聴し、ポセイドンの怒りを買った、古代エチオピアの王妃。9月の風は、わたしに優しい。

アポロ

アポロは猫だ。わたしの猫。

わたしの猫は「アー」と鳴く。少なくともわたしには、「アー」としか聞こえない。上品なグレー地に、額からはシュッシュッと滑らかで鋭い黒色のラインが入った毛を忍ばせて。彼は機嫌が良いのか悪いのか、時折わたしを見ては「アー」と鳴く。

はじめてうちに来たときに、わたしが差し出したごはんのお皿をしげしげと見つめ、わたしを見つめ、それから「アー」と鳴いた。「アー」と鳴いて、ごはんを食べ始めた。食べ始めたときに、口の端からポロっとごはんをこぼした。

「今日からきみの名前は、アポロだ」わたしは彼にそう宣言する。アポロは一瞬だけ口の動きを止め、それからまたごはんを食べ始める。

あれから2年。近所のペットショップで売られていた「はじめてのネコ暮らしセット」に入っていたごはんを卒業し、アポロの年齢や体調に合わせてごはんを選べるぐらいにはなった。社会人4年目のわたしの帰りが少しぐらい遅くなっても、アポロは動じない。いや、帰りが遅くなって不安に駆られていたのは、いつだってわたしのほうだった。プレゼンの資料作成・・・以前に資料をつくるための資料が集められなくて、デスクに置かれた「がんばってね」というメッセージ付きのキットカットさえ叩き潰したあの日が懐かしい。倒れこむようにして家に帰ったわたしをアポロは、「ごはんは?」とせっついた。「アー」と鳴いた。深夜1時。そのとき、とてもホッとしたのを強く覚えている。彼氏が「メシは?」なんて聞いてきてたら、そのままさよならだったんだろうけど。

きみの有能さに、ときどき嫉妬する。ごはんは残さず、きちんと食べるし、トイレもすぐに覚えた。わたしを慰めに来るタイミングも素晴らしい。わたしの病みツイートが減ったのは、間違いなくきみの影響だ。だけど、わたしはきみに、何をしてあげられているかしら?

そんな風に考えていると、なんだか久しぶりに、泣けてくるのよ。

その5‐7(ザグレブ、ブダペスト)

翌朝。ついに観光最終日だ。ありがたいことに朝からよく晴れて日差しもあたたかく、マフラーや帽子はいらないぐらいだ。

昼過ぎに電車に乗ってブダペストに向かう。それまで少しだけ観光の続きをしよう。昨日目をつけておいたオリーブオイルギャラリーに今日こそ行かねばならない。

宿を出て歩いていると前方にベンチが見え、その背もたれに5羽のスズメがとまっていた。私がベンチに近づいていくにつれ、1羽、2羽と同じ方向へ飛び去っていく。しかし最後の1羽だけキョロキョロしたまま、ついに最後まで飛び立つタイミングを失ってその場にとどまっているのを見たときに、私は彼(彼女)になぜか強烈なシンパシーを感じた。

オリーブオイルギャラリーの場所については、昨日大活躍した案内書を見ても、宿のWi-fiのおかげで利用できるGoogleマップを使用しても、どうも要領を得ない。まぁ行けばあるのだろうぐらいに考えて、とりあえず昨日と同じく、マリオの髭をたくわえた男の像のある大広場に出て、案内板の示すとおりに大聖堂のほうへと進んだ。

昨日よりもたくさんの人が大聖堂に入っていくように感じる。なんだか活気さえ感じる。そこで私は、今日が日曜日、礼拝の日であることに気がついた。これはタイミングが良かった。昨日も中に入ったが改めて中に入らせてもらうと、そのときはみんなでミサか何かを歌っていた。歌い終わって、牧師が何か少し言って、再び歌った。

牧師はピンマイクを使って話す。マイクがなかった時代にあの大きさの聖堂に地声を響かせるのは、気持ちいいかもしれないがなかなか大変だったろうと思う。牧師のお話し中も、みんなの歌の最中にも続々と人が出たり入ったりする。十字を刻んでひざまずいたりしている。

私だけが、言葉もわからず、キリスト教の知識も、ましてや礼拝では何をするのかについても全くの無頓着で若干の不甲斐なさを感じながら、自分にはオリーブオイルギャラリーぐらいがちょうどいいのだと肩を落としてその場を離れた。

標識に従って進むが、全然ない。というか、いつのまにか標識が消えている。標識どおりに進んだからには、標識の逆鱗に触れて正しい道を教えてもらえないということもなさそうなものだが、とにかく進むべき方向がわからなくなった。そこそこ歩いていい加減にあきらめて、来た道を戻っていると、行きに目にした最後の標識のところまで戻ってきた。そういえばこの標識、まっすぐを指しているように思ったが、見方によっては左折を示しているように見えなくもない。幸か不幸か私は暇で(というかこのギャラリー以外に行きたい場所も特になく)、ダメもとで左折してみるとあっけなくその先に、次なる道順を示す標識を見つけた。

今回に限っては、私は悪くないと思う。皆さんにお見せしたい、あれはどう考えてもまっすぐを指しているように判断せざるを得ないと思う。

オリーブオイルギャラリーは、小さいショッピングモールのような施設の中にあるようだ。3階建て程度の規模で、お客さんもあまり入っていない。住宅地を一本入ったあたりにある、立地に恵まれているともいえないこの場所。どういう意図で建てられたのだろう。

そんなことはどうでもいい。オリーブオイルギャラリーだ。だが、ない。ギャラリーがない。

仕方がないので、ふたり立ち話をしていた掃除のおばさんに尋ねてみた。どうも英語をわかってくれない。そこにたまたま通りかかった老紳士が、おばさんふたりに挨拶しがてら(知り合いだろうか)何事かと私を見る。私は彼に、簡単な英語でオリーブオイルギャラリーをご存じないかと尋ねた。

彼は核心部分を理解してくれたものの、微妙にずれた解釈をとってしまった。具体的にいうと、オリーブオイルギャラリーはもう閉まっている、クローズしているという情報を私に与えてくれつつ、だが大丈夫だ、君は下の階にあるスーパーマーケットでオリーブオイルを購入できるよということを非常に懇切丁寧に教えてくれた。得体の知れないオリーブオイルギャラリーに入ることを目的としていた私の気持ちはいまひとつ汲み取ってもらえず、オリーブオイルギャラリーでオリーブオイルを買おうと思っていたのに買えないかわいそうな少年の望みを絶つわけにはいかないという老紳士の熱いハートが、もう少しのところで私にとって120%不要なオリーブオイルを買わしめた。

それにしても、老紳士とおばさんふたりは親切でよかったが、ずいぶん無駄骨になった。人を迷わせるようなたて方で標識を設置したうえに、もう閉まっているのならとっとと撤去してほしい。

それからは、昨日の青空市場でおみやげを10クーナ(たしかおよそ200円ぐらい)値切って買い、PAN-PEKというザグレブ市内でよく見かけるチェーンのパン屋で今日の分の昼と夜を買い、ホテルに戻って荷物を受け取って中央駅に向かった。

中央駅に向かうトラムに乗っていると、とても可愛らしい女の子を乗せたベビーカーを押してお父さんが入ってきた。彼女は手に持った人形をいじくるか、外の景色を見ているような見ていないような風でいるか、どちらかであった。ベビーカーが窓のほうを向いているからそうならざるを得ないという説も一理ある。

今日はいい天気で、日が車内に差しこんでくる。それがちょうど女の子に当たる角度と位置なのだ。たいていは建物の影になるが、ときおり車内の彼女に向かって日が差す。その度に、お父さんは彼女の目を手で覆っていた。覆っては影になって手を外し、再び日が差し込んできては手で覆う、その繰り返しだ。そういうことが本当に必要なのかどうかは知らないが、たしかに小さくデリケートな瞳にはこの光線は強すぎるかもしれない。

父の思いなど我関せずとばかりに、彼女は日差しを真正面から受けるような姿勢をとる。もうあと15年もすれば、もっと父の思いを無視していろいろと遊びまわるのかもしれない。そう思うと、彼にも彼女にも全く関係がない私も、お父さんを想って同じ男として胸が痛んだ。ベビーカーはそのうち、窓と反対側に向けられた。

駅に着いたとき、電車の出発までまだ1時間ほどあったので、駅の真ん前にある王宮スケートリンクを見に行った。今日も繁盛している。と思ったら10分ほどでみんな引き上げてしまった。整地作業をぼんやり見ながら時間をつぶした。

私が乗った電車の座席では、最初の2、3時間は6人がけを独り占めできたが、後の半分ぐらい(ちょうど国境あたりだっただろうか)でふたりセットの若者と一人のおばあさんがやって来て、ゆったりとは言えなくなった。私の前に座ったおばあさんはSUDOKUと書かれた薄い冊子に取り組んでいた。そういえば欧米圏の特に中年以降世代の人々が数独を解いている姿はよく見かける。

今回の電車は逆走したりせずに走り、20分程度遅れてブダペストに入った。あたりはすっかり暗くなっていたが、さすがに三度目のブダペストでは正確に地下鉄を乗りこなし、ホテルまで無事にたどり着いた。

翌朝はホテルの朝食バイキングを堪能したが、私が席に着いて10分ほどしたところで大勢の中国人がやってきた。その中国人たちとはまた別だと思うが、韓国人の数人連れもいたように思う。日本人は私だけだった。

旅行をしていると、改めて中国人観光客の多さには驚く。行く先行く先、まぁ必ずと言っていいほど中国人はいる。10億人以上もいれば、そりゃあどこに行こうが観光客の数人もいるのかもしれないが、やはりそのパワーというか、ホンマにいるんか、というある種の感嘆は禁じえない。逆にだからこそ、この前にフランスのモン・サン・ミッシェルを訪ねたときに中国人を凌ぐ日本人観光客を目にしたときにとても驚いたのだ。

 

バスも飛行機も無事に走って無事に飛んだ。その日は一日がかりで、朝8時から夜の9時までかかって留学先のスウェーデンの寮にまで帰ったことを記しておこうと思う。

そして何より、クロアチアの特に沿岸部の都市は、筆を尽くそうとするほどにそれが徒労に終わるような、それはどうしたって表現しえないのだ、実際に行かないとわからないし伝えられないのだというような感覚に陥るほどの景観と空気が私たちを包むこと請け合いであることも添えて、この章を終えようと思う。

その5‐6(ザグレブ)

昨晩は、雨のせいもあるかもしれないがずいぶん寒かった。それに比べると今朝は、曇ってはいるが寒さが緩んだように感じる。5、6度はあるんじゃなかろうか。トラムに乗って、いちばん大きく、観光の基点になると思しき広場まで行く。Trg J. Jelačićaというところで降りた。

ザグレブ観光については完全に素人なので、今回もいつものようにホステルに置いてある地図と簡単な観光案内所を読んでおおよそのルートをつかんでおいた。この案内書には親切にも、「このルートをたどると良いでしょう」というような矢印が色つきで示されていたので、原則それに従っていこうと思う。思う、と書いたのは、私が通る道の最終決定権は私にしかなく、そして私が地図どおりに道を進めるかどうかは無論はなはだ怪しかったからである。

トラムは比較的よく来る。トラムから外を眺めていると、これはザグレブに限ったことではないがクロアチアにはパン屋が多く、価格が安い。味も全く問題ないし、旅行者にとって非常にありがたい。

さて、先に述べた何と発音するのか見当もつかない大広場で降りると、そこにはたくさんの人がいて、大広場、観光の拠点にふさわしい場所、親切な案内書ありがとう、であった。まず目に飛び込んできたのは「BAN JELALIL 1848」と書かれた大きな騎乗像で、彼の鼻と口の間には立派なマリオ髭がたくわえられていた。何かの英雄に違いない。1848年に亡くなったのだとすれば、ナポレオン戦争関連だろうと推測される。

広場には地元民のほかに観光客と思われる顔もしばしば見られた。こんな寒い時期にでも来るのかと思う。

まず向かうは大聖堂だ。所々に立つ案内標識には無数の施設の名前が表記され、そのほぼ全てが同じ方向を指し、案内標識としての役割に新たな意味づけを求めているようにも見えるが、まずは大聖堂だ。その案内標識の中に、観光案内所には書かれていなかったオリーブオイルギャラリーなるものがあって非常に気になるが、まずは大聖堂だ。

大聖堂は完璧にゴシック様式の、非常に立派にとがった高い建物だった。中も広く、イエスの磔はもちろん、イエスが生まれたときのジオラマ(というのだろうか、マリアがイエスを抱き、その隣にヨセフがいて、周りには羊もいる)があって、ステンドグラスもたくさん張られており、内装も充実していた。

十字を刻んだり、イエスの磔の前にひざまずいたりしている人たちを見ると、そしてそれがもちろん、全くもって奇異ではないことを考えると、宗教というのは本当に不思議だと思う。それはたぶん日本人として思うのだと思う。外国に慣れていなかった頃、たとえばチェスキークルムロフ(チェコ)の聖ビート教会に入ったときは、ただその非日常的な静謐さに半ば圧倒されていただけだったが、少しずつ、教会を訪れる回数を重ねることで、考えることや感じることが変わっていくのがわかる。そのうちそれが、ただの既視感や倦怠になってはいけないなと思う。

その次に訪れた教会の屋根はタイルが敷き詰められている。タイルは国の紋章らしき図面を描いていた。ドット絵のようにも見え、それは私にどこかパックマンの世界を髣髴させた。そのすぐ傍にある歴史博物館にも立ち寄った。それほど大きくない建物、フロアは戦争にまつわる展示ばかりだった。クロアチアの歴史は結局のところ戦争ということなのかもしれないし、単にこの期間がそういう展示だっただけかもしれない。

このあたりは坂が多い。道端にはそこそこ雪が残っていて、歩行者も自動車も慎重になる。

そのあと、ちょっとした展望台に出たが、市内を見渡すには低すぎる。ただ、少し雪をかぶった赤い屋根の立ち並ぶ景色は、ドブロヴニクやスプリトにはないものだ。

ちょっとした展望台を降りると、いちばん最初の大広場に戻ってくる。ちょうど昼時で、大聖堂の前にあったレストランに入ろうと思い、はじめとは一本違う道を通る。朝は気がつかなかったが、この道のほうがたくさんの人が集まっている。何があるのだろうと階段を上ると、そこには青空市が広がっていた。主におみやげや食料品が売られている。特に野菜と果物、その中でもリンゴとミカンが大人気だ。みかんは量り売りが主流のようで、各々ビニール袋に入れたミカンをブリキのバケツに入れて計量している。私はそこで、ドブロヴニクでもらったミカンのことを思い出し、そのミカンの皮をむくときの音も、そのときに鼻をくすぐる香りも味も日本と同じで、ずいぶん感動したことも思い出した。

 

昼食を終えたあと、今度は大広場から南半分を攻める。言い換えると、大広場から鉄道の中央駅へ向かうルートだ。こちらには目抜き通りがあり、屋台やパン屋、レストランが並び、お昼どきということもあってどこも大勢の人でにぎわっている。首都にふさわしい活気だ。

そこを抜けると国立劇場がある。濃い黄色で塗られた国立劇場はスプリトのものよりは大きく装飾も手がかかっていたが、すでにパリやウィーンのトップ・オブ・トップな劇場を見てしまっているので「小さいな」という印象のほうが勝ってしまう。

それからさらに15分も歩けば、中央駅前に出る。ここには王宮が建っている。王宮の前には広場があって、何とそこがスケートリンクになっているではないか。大人から子どもまで、みんな気持ちよさそうに滑っているのでうらやましくなり、とりあえず料金表を見てみると、入場料400円、貸し靴200円という大バーゲンだったので、5、6人並んでいる列に私も並んでチケットを購入した。

75分で1ターン、そのあと30分の整地の時間があって再び75分、という方式になっていて、入場券1枚で1ターンだ。いま入ってしまうと30分ほどしかスケートを楽しめないということなので、1時間待ってもう一度戻ってくることにした。いったん宿に戻ってかばんを置き、身軽になったところでスケートリンクに足を踏み入れた。

靴を借りるのに時間がかかり、そのあとスケート靴を履き、自分の靴を預け、そんなことをしている間に20分ほど経過していたが、じゅうぶんにスケートを楽しめた。

約10年ぶりのスケート。はじめの15分は、ただ転ばないためだけに生きているよちよち歩きの物体だった私は、すいすい滑る地元のちびっ子たちに「ジャマだ」と、その小さな手で押しのけられ、屈辱を味わわされ続けた。

なかなかスムーズに滑ることはできなかったが、王宮前でミラーボールがあでやかに回り、大音量の音楽が流れる中、人々のはしゃぎ声に囲まれているだけで、私の心は満足だった。

時間終了10分前に切り上げたから、40分ぐらい滑っていたと思う。スケートって、なんであんなに汗が出るんだろう。熱くなった体と、靴を履き替えて軽くなった両足を切に感じながら、宿に戻った。私の宿は、地元サッカーチームのディナモ・ザグレブのスタジアムに非常に近かったので帰り道に寄ってみたが、ショップは閉まっているしグランドには雪が積もっているし、正真正銘シーズンオフだった。