月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

痛い立ち位置

金の万年筆を片手に、金縁の眼鏡をかけた水田社長は、社長室で全盛期比40%の頭髪を撫でながら「参ったな」と呟いた。そこに軽やかなノックの音が聞こえ、横田秘書が部屋へ入ってきた。

「失礼します、社長。先月我が社がリリースいたしました新車種についてですが」とタブレットを操作しながら横田は近づいてくる。「こちらがアンケート結果です。認知度が非常に高く、購入希望者率は他社と比較いたしましても飛びぬけております。車のスペックにおける魅力はもちろん、広告戦略も功を奏したのでしょう」と横田の機嫌は上々である。

「それはよかった。太陽光と水素燃料のハイブリッド車を実用化させたのは我が社が初めてだし、消費者層からすれば燃料費の削減がもっとも魅力的だろう」と水田は頷いてみせる。しかしその目は横田には向けられず、150m下を行き交う人や車の列をぼんやりと眺めている。水田は今、それどころではない。

たしかに、我が社の車の出来は素晴らしい。技術革新を世界に先駆け率先して進め、デザインや乗り心地の向上、遊び心も忘れない。国、いや産業を代表するにふさわしいパフォーマンスであると、社員にも製品にも、水田は誇りを持っている。

しかし、だ。先日スバルが発表したニューモデル。技術レベルこそ我が社には及ばないが、クルマのかっこよさを人の心に訴えかけるあのデザインはなんなのだろう。あれはかっこいい。あれが欲しい。あれに乗りたい。水田は、おもちゃ売り場を前にした子どものような衝動に駆られている。そして、車の一台ぐらい何のためらいもなく購入できる経済力がある分、水田の心は余計にざわめいている。

無論、社長として、他社の車、ましてやニューモデルに喜々として飛びつくことなど許されない。しかし、あの車に乗りたいという素直な気持ちを無視するのも忍びない。

「参ったな」ともう一度呟く水田の脳裏には、上機嫌な横田の横顔が映し出されている。