月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

メリッサ

私はどこかにいる。たしかに、どこかにいる。

視線の先には、光が見える。手を伸ばせば届く距離で、果てしなく遠くで、私を拒むように、待ち望むように、光っている。

私を呼ぶ声が聞こえる。

光の先で、誰かが私を呼んでいる。いや、上から。いや、私の中から。

ここには上も下もない。右は南になり、下は左になる。後ろが8マイルになり、1秒が鋭角になる。

私を呼ぶ声が聞こえる。

はじめの一歩を踏み出してみる。その感触は頼りない。もう一歩、さらにもう一歩。光は相変わらず、視線の先にある。

周りを見渡してみた。色のない世界が広がっている。朽ちかけたネオンサインの最期の祈りのように、絶対的な色のない世界に、八百色が明滅している。

私を呼ぶ声が聞こえる。

光の強さが、さっきよりも強くなった。相対性のない世界の中で、私の鼓動だけが、その変化を感じ取っている。私の心は、時に連れ去られたらしい。

私を呼ぶ声が聞こえる。

どれだけ歩いたのだろう。そもそも私の歩幅に、意味はあっただろうか。もうすぐ辿り着きそうな気がする。それなのに、私の鼓動は期待しない。

進みたい。だけど、何かが私を引き寄せる。逆側から。「行ってはいけない」と押しとどめる。

私の鼓動は、意味を欠落させて泣いた。本当に泣きたいのは私のほうだったのに、私の涙はもう、どこにもない。

「むくどりにプレゼントしたじゃないか」神様が私に、そうつぶやく。

私を呼ぶ声が聞こえる。

忘れていたことを思い出した。何を忘れていたのかだけが、思い出せない。

私を呼ぶ声が聞こえる。

こっちじゃない。

私を呼ぶ声が聞こえる。

私の心が泣いている。

私を呼ぶ声が聞こえる。

鼓動は苦しんでいる。

私を呼ぶ声が聞こえる。

私を呼ぶ声が聞こえる。

私を呼ぶ声が聞こえる。

「メリッサ!」

私は目を開く。虚空のような天井。静寂のような点滴。偶像としての看護師。そして、見覚えのある彼の顔。

メリッサ。私の名前。私はここに、戻ってきた。

音のない森

声が届かない。姿が映らない。存在が認められない。ぼくは学校が楽しくない。

ぼくがいけなかったんだろうか。中学生になれば、小学生のときよりも勉強が難しくなる。部活もハードになる。ぼくみたいな才能のない人間は、コツコツ努力をしないと夢や目標に近づけない。そんなことはみんなわかっているはずだ。だからぼくは、変わろうと思った。

宿題はちゃんとする、授業中になるべく手を挙げる、部活の走り込みを人より多くする。先生たちはそんなぼくをちゃんと見てくれていて、5月の三者面談ではぼくの態度を褒めてくれた。「他の生徒よりも、中学生としての自覚があります」。

小学生じゃないんだから、宿題を忘れた友人に写させてあげることが彼のためにはならないと理解したし、平日が忙しい分、休日に勉強の予習や復習をしなくてはいけない。だから遊べる時間なんてほとんどない。そんなこと、みんなわかっているはずだろう。だからぼくは言ったんだ。「俺はこれまでの俺とは違うんだ」って。周りの友だちは変な顔をしていた。友だち、そう思っていたヤツら。友だちなら、友だちを応援するのが筋じゃないのか。

毎日がつらい。どこに行っても、誰とも目があわない。声をかけても、その音はぼくの目の前に落ちていく。いつのまにか問題集には墨汁がぶちまけられ、体操着はプールに浮かんでいる。だけど大人は頼れない。大人なんて、頼れるはずがないじゃないか。

「何がいけないのか」問いかけたい。実際に問いかけた。しかし、ニヤついたヤツらの目の前にぼくの声は落ちていった。床に這いつくばった、ぼくの声。

中学校は義務教育だ、ということはぼくはこの地獄をあと28ヶ月、500回以上続けなくてはいけないのか。乗り切れるだろうか、耐え続けられるだろうか。この終わりが見えない地獄。あるいは、この地獄から今すぐに逃れる方法はあるのかもしれない。

今、ぼくには、その方法はひとつしか思いつかない。

夕方からのホームパーティー、というほどオシャレなものではきっとないけど、うちに彼が来るというんだから、きちんと掃除はしておきたい。特に水まわり。「ココで差がつく」とお昼の情報番組で言っていた。キッチンと、別に何を期待しているわけではないけれど、浴室の排水溝。

排水溝に詰まった髪の毛は不気味だ。肩甲骨まで伸びたわたしの髪の毛は、そこで二度と解けぬよう複雑に絡まりあい、どこかアンタッチャブルな存在に見える。水流にさらわれて、浴槽から排水溝へ流れていくわたしの髪の毛。断末魔の叫びさえも呑み込まれたその怨念が、ひとつの形としてわたしに襲いかかろうとしている感じがする。

人前で言うことではないかもしれないけど、わたしは自分の髪の毛が好きだ。彼にもわたしの髪の毛を見てほしい。髪の毛から好きになってくれてもかまわない。だけど、排水溝にへばりつき絡み合う髪の毛は見てほしくない。どうしてだろう。

半年前、当時別れたばかりの元カレが、自分の部屋のフローリングに落ちていたわたしの髪の毛を見て泣いたと言っていたと友人から聞いて、わたしは心底嫌だと思った。わたしの髪の毛を通して、とっくに済んだ二人の関係を再び迫られ、泣きつかれているような感じがしたのだ。

排水溝の髪の毛を彼に見てほしくないのは、それと似ているのかもしれない。

掃除は済んだ。準備は完璧。あとは身支度を整えればいい。

それなのに、なぜか排水溝が気になる。まだ終わっていない気がして、わたしの目の届かないところ、排水溝の奥から、テレビ台の下から、エアコンの送風口から髪の毛が湧き出てくるような気がして、わたしはふいに、自分の髪をちぎりたくなった。呪いを断ち切らなくてはいけない。ちぎることができないなら、切るしかない。

震える手で引き出しを開け、ハサミを取り出す。大切に伸ばしてきた自分の髪に、わたしは鏡も見ないでハサミを向けた。

Mugen

JFK。ジョン・F・ケネディ空港。俺とマヤとユウキは、アメリカに降り立った。

「うわー、マジで来たって感じだな。アメリカ」

「それな!はい、写真写真~。ここWi-Fi通ってるよね?」

撮影隊長のマヤが、上陸後最初の写真を早速SNSにあげている。数秒後には、日程の都合上来ることができなかった仲良し5人組最後のひとり、サナエがコメントを残している。「いいな~NY。わたしのぶんまでカズを応援してね!」

2日間のNY観光の後、俺たちは本当の目的、カズが参加するフードファイター世界選手権の応援に行くためにシカゴへと移動した。

際立った体格の持ち主というわけではなく、その割に普通の人よりはよく食べるかな、といった程度のみんなの認識が一変したのは、件の5人で九州旅行に行ったとき、冗談で頼んだ12人前チャーハンをカズひとりで完食してしまったときだった。「まだ8割かな」と言いつつ、自分でも驚いていたカズの才能。いつの間にか、日本代表として大食いの本場アメリカの門をたたくようになった。

時差調整のため数日前に入国していたカズは、笑顔で俺たちを迎えてくれた。

「いや~がんばるわ~」

物腰の柔らかな言い方と、その裏に隠された決意を俺たちは知っている。そして始まったその戦いは、ただ食べているだけとは表現できない迫力に満ちたものだった。

世界各国から集まった巨漢たちと並んで、無数に積み上げられたハンバーガーに食らいつくカズ。その隣に、カズの倍ほどもあろうかという大きさの口でハンバーガーを丸呑みにしていく化け物がいる。あんなヤツに、勝てやしない。俺たちは思った。カズも薄々気付いていただろう。それでも必死に食らいつく。食べるという行為を通して、本当はファイター同士で殴り合っているようだった。

20人中13位。カズと3人で写真を撮る。悔しさをにじませたその顔と、それを囲む俺たちに、サナエは「超いいね」を押していた。

幸せについて本気出して考えてみた

僕が父から教わったこと。人は、自身の幸福を求めて生きるのだということ。人生とは、いわば自分だけの幸福を求める旅なのだということ。その幸福は、他者との分かちがたい掟と絆によって固く保障されねばならず、それは神の庇護によってのみ成立するということ。そして、その幸福を乱すものには、神からの容赦ない鉄槌が下されるということ。

僕は幼いころから父に連れられて、近所の祈り場や教育所、「先達」と呼ばれる我々の指導者の会合に顔を出した。もちろん、幼い僕には大人たちが話すことの意味を理解できなかったけれど、時として銃を携え、血を流しながらも、神の「代行」を達成して帰ってくる偉大な彼らと同じ空間で、食べたり飲んだりする経験はとても楽しかったことを覚えている。

周りの子ども達も、大体僕と同じような幼少期を辿ったと思うが、10歳になるときに「踊り場」を上がれたことが、僕のひとつの転換点だったはずだ。自由記述の作文と面接。僕は自身の心のままに、いかに自身の宿命が幸せと同義なのかについて、懸命に少ない語彙を使って書き、滔々と述べた。日ごろ、父や先達が僕に教えてくれていた言葉。「宿命を知り、神に散る」。右腕に刻んだ、座右の銘。

父が若くして病気で亡くなり、後を継いで僕が先達となったころ、大規模な代行が決定した。大陸の向こう側から、デモクラシーを謳う輩。古代ギリシャ語の概念をいまだに踏襲したカビどもに、今こそ我々の正義を証明せねばならない。血を流さねば、わからぬことだってある。そうして気付けばいい。神はどこにいるか、幸福はどちらに在るか。

その日、僕は先頭にいた。妻と息子へのあいさつは、昨日のうちに済ませておいた。

また帰ってくる。流れた血、神への祈り、同胞への号令、その数だけ我々は強くなる。またひとつ、真の幸福に近づく。

僕の胸は高鳴っている。幼い頃から夢に描いてきた瞬間だ。世界は今日、我々の正しさを知る。

ヴォイス

10年も美容師をやっていると、声を聞くだけでなじみのお客さんの調子が何となくわかる。具体的に、どこがどんな風に違うのかと問われても、それはとても感覚的なものだし、説明しようとしてもその違和感の箇所は人それぞれ違うから、一概に答えることはできないんだけど。

さっきの、高校生のときから来てくれるようになって、社会人になった今でも来てくれている男の子、っていう年齢でもないんだけど、彼の気分があまり良くないのは、襟足を切っているときに感じた。私がなにか言って、そのときの彼の相槌「そうなんすね」が、どこか芯を捕らえていないような口調だった。

彼の元気がないことに気付いたとして、私はその原因を探ったりはしない。それを解放する場所がどこなのか、決めるのは本人だ。なじみの顔であっても結局、私と彼は他人でしかない。サービスを提供する者とされる者。そのラインを、他の人たちがどう思うかは別として、私はまたぐべきではないと思う。

彼は恋愛で落ち込むような人間じゃないから、実際、高校生のときに好きな子にフラれた話をおもしろおかしく語っていたし、仕事のことで少し行き詰っているんじゃないかな。

その点、それから数時間後にやって来た大学生一年生の男の子は、絶好調みたいだった。いつもより一言多く話す。声のトーンも少し高い、気がする。「学食が安いのはいいんすけど、メニューが代わり映えしなくて悩んでるんですよ」だってさ。おいおい、そんなくだらないことを悩みと呼べるのも、今のうちだけだぜ。

とはいえ、悩みというのは、私には悩みなんて特にないけれど、それがどの程度のものであれ、抱えている当人には少なからずタフなものだ。私がカットするたびに、そのつらい気持ちのほんの少しでも、削ぎ落ちていけばいいなと思う。

そうだ、強いて言えば、私の声に元気がないときに、それに気付いてくれそうな人の顔を思い浮かべられないのは、悩みかな。

アゲハ蝶

チューリップだって、キスをしたい。

5月のある日、昼下がり。僕は唐突にそう思った。都心から車で40分ほどの場所にある自然公園。見渡せばたくさんの花。自分と同じチューリップたちが、我こそはと咲き誇る。黄色や赤色のチューリップは、真っ白な僕よりも彩り豊かで美しく見えるかもしれない。そんなことを考えながら。

僕は、南南東の方角で咲いている白いチューリップのことが好きだ。彼女はとても、しとやかだ。凛とした立ち姿。花弁にも気品を漂わせている。数多く咲いている白いチューリップの中で、彼女の存在感は群を抜いている。

だから、僕はそんな彼女と知り合いになれて、とても嬉しい。彼女は僕のために、その花弁を垂れて会釈してくれ、最近は言葉を交わすことさえできるようになった。

いい天気ですね、今日は子どもが多かったですね、風が強いと困ります、そんな風に、他愛ない会話が本当に嬉しい。

そして今日、久しぶりに一羽のアゲハ蝶が、僕たちのところへやってきた。ふらりふらり、あてどなく漂っているようで、思いついたように彼女のもとに落ち着く。そして彼女の蜜を吸う。彼女は黙って、凛として立っている。僕の胸が、なぜだろう、少し苦しい。

アゲハ蝶は、ハッとしたように蜜を吸うのをやめて顔をあげ、飛び立った。ふらりふらりと飛び去り、ゆらりゆらりと戻ってくると、今度は僕のもとに降り立った。

僕も黙って、蜜を吸われている。アゲハ蝶の口吻越しに、彼女が香った。彼女の香りを、僕はそのときはじめて知った。それは、未来を宿命で混ぜたような香りだった。やがてアゲハ蝶は飛び去り、再び戻ってくることはなかった。

僕はもう、アゲハ蝶の顔を覚えていない。だけど、それが残していった彼女の香りは、今でも覚えている。思い出すとドキドキする。5月はいつも、ドキドキする。

僕は彼女が好きだ。チューリップだって、キスをしたい。

いつか想いを伝えよう、僕はそう思った。