月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

6400字小説(リフレクト)

リフレクト

 

あれは小学校3年生だった。

僕はリコーダーがうまく吹けなかった。ソ、ラ、シ、高いドとレの音は出せるけれど、右手を使わなければならない音になるとまるでダメだった。

学級委員の井口由美さんは、放課後に居残り練習をさせられている僕に付き合ってくれた。

 

「ソとラとシは吹けるのにね。へーんなの」と言いながら僕を応援してくれていた。井口さんは、それ以降の音に右手が登場することで格段に複雑になる指の動きや息遣いを何とも思っていなかったんだろう。

たやすくできる人間に、できない人間の気持ちはわからない。僕はできない人間の気持ちがわからない人間が嫌いだった。前向きに元気を分けてくれるふりをして、心の奥底でできない人間を見下しては優越感に浸る人間のことを軽蔑した。

だけど、井口さんだけは違った。

井口さんは、たしかに口ぶりでは僕をからかったけど、そのあとに必ず僕よりも考えて悩んで、次のステップに進むための方法を提案してくれた。

その全てが成功に終わるわけではなかったけど、僕は井口さんの無償の優しさがうれしかった。手を添えて指を押さえる練習をしてくれたときは、男である立場上、添えてくれた指を振り払って「やめろよ」と言ったけど、本当はそんなんじゃなかった。

下校中ずっと、その瞬間を何度も何度も思い出しては体中が熱くなるのを感じていた。晩ごはんを食べているときもお風呂に入っているときも布団に入ったあとも、僕はそのときのふたつの鼓動と体温を思い出していた。あんなに素敵な出来事はそれまでをさかのぼってもそれからを振り返ってもあまりなかった。

井口さんのためにリコーダーを一生懸命練習した。一通りの音を押さえられるようになっても、メロディを奏でるとなると話は変わってくる。その度に井口さんは僕のそばにいてくれた。

「鉄棒は上手なのに、リコーダーは全然じゃん」

「途中までいけるのに、そこの部分ホント苦手だねー。全然難しくないよ? ちょっと見てて」

 

井口さんがそばにいてくれると、家で練習するよりも上手く吹ける気がした。実際は気持ちが空回りして出だしからつまずくこともあったけれど、井口さんの目線を感じていると勇気と元気が湧いてきた。リコーダーの穴が小さくなって僕に寄り添い、僕の指が大きくなって繊細に動き、押さえられない音も奏でられないメロディもないんじゃないかと思った。

 

春が夏になって、夏が秋になって、秋が冬になって、校門前の空き地にアパートが建って、校長先生が病気で突然変わって、近所の公園がつぶれてしまっても、毎週金曜日の放課後は必ず、3年3組の教室には黒と赤のランドセルがひとつずつ隣同士に置いてあった。

 

そして新しい春がやってきたとき、キキララのキーホルダーをつけた赤いランドセルと一緒に、井口さんは遠い町に引っ越して行った。

 

 

あれは中学校2年生だった。

僕と斉藤頼子はよく一緒に帰った。同じ団地に住んでいて、部活が終わって帰っていると自然と並んで歩くようになっていた。

頼子とは小学生の頃から一緒に遊んでいた。小学校2年生のときに頼子が団地に引っ越してきて、ある日ひとり人数が足りない折に通りかかった頼子をケードロの仲間に入れて以来、みんなと一緒でもふたりだけでもよく遊んだ。

夏には親に一緒にプールに連れて行ってもらったし、冬には団地の前で雪合戦をした。頼子は負けん気が強いくせに、少し勢いのある雪玉が顔に当たるとすぐに泣き出すから面倒だった。

正月には羽子板もした。頼子は団地でいちばん羽子板がうまかった。手先が器用なのか、4年生のときに流行ったヨーヨーも頼子は上手かった。

雨が降らない日は外で駆け回って遊んで、雨が降る日は家でじゃれあって遊んだ。缶蹴りも鬼ごっこもした。ゴムとびも凧揚げもした。オセロもしたし人生ゲームもした。この年代の子どもが行う遊びの全てを僕らは遊びつくした。

 

「最近どう? 部活。バスケ部だっけ」

「そう。別に何もねぇよ」

「ふーん」

僕らはたいてい黙って歩いた。そういう年頃だった。異性として意識しているとか嫌いだとか、そういうのではなくて何となく話すことはなかった。

その年の秋に、僕とは部活もクラスも同じ菊田と頼子が付き合っているという噂を耳にした。

別に何とも思わなかった。菊田は隣の小学校出身で、バスケは僕より上手かったが頭は僕より悪かった。背は僕より少し高いぐらいだったけど、気になるほどでもない。僕が彼との相違で一番気にしていたことといえば、彼は部活のレギュラーで、僕はベンチだったということだった。

 

正月が明けると体育の授業はマラソンになる。2月のはじめに校内マラソン大会があるのだ。

ただでさえ部活で走っているのに体育の授業でも走らされるのは苦痛以外の何者でもなかった。でも、サボったら顧問にばれる。顧問にばれたら、試合に出してもらえなくなる。

試合に出たいというよりは、試合に出られないことがいやだった。要するに我が身の体面が気になった。

マラソン大会当日はよく晴れて寒かった。空の水色が氷のしずくになって降り注いでいるように感じた。

もともと走りこんでいるから、マラソンが始まると追い抜かれるよりはるかに多くの同級生を追い抜かした。前にいるのは、やっぱり普段から走りこんでいる運動部の奴らばかりだった。

男子は校庭の外周を10周走ればいいんだけど、女子は同じ校庭の内周を6周回る。正念場の僕たちをよそに、女子は次々と走り終えていった。

僕は8周目に入った。この周は今のペースで持ちこたえて、次の周からスパートをかけていこうと思った。どんなに走るのが遅い女子もこの頃にはほぼ全員ゴールしていて、まだ走っている僕らを見たり見なかったりしながら仲の良い友達とおしゃべりしていた。

8周目が終わりに差し掛かるとき、前に菊田が見えた。前に見えたのは菊田だったのに、僕の脳裏によぎったのは頼子の顔だった。正確には、いつも並んで歩いているときに見る、薄暗がりの中の頼子の横顔だった。

9周目に入ったとき、頼子が僕たちの走っている姿を見ているのが目の端に入った。たぶん菊田を見ているんだろう。隣にはそんな頼子を冷やかそうとしているようにも思える女子が2、3人いる。

僕はペースを上げた。さっき想定していたよりも、ほんの少し速いペースでスパートをかけた。菊田の背中が大きくなっていく。自分で思っていたよりもはるかに速い速度で菊田に近づいている。

最後のカーブを曲がったところでほぼ菊田に並び、10周目に入ったところで僕は菊田を追い越した。ずいぶんしんどくなってきたけど、ここで止まるわけにはいかなかった。荒く息を吸っては吐き、赤く熱を帯びた菊田の頬を後ろ目に、頼子の目線も感じていた。もっと速く走りたい気がしたし、走れる気がした。

それでも気持ちとは裏腹に足の回転速度は落ちていったけど、もうダメだと思ったときに、150人いる男子の中で13番目にゴールした。

ゴールして周りを見たけど、そのときには女子は全員更衣室に帰ったあとだった。

 

その日は部活がなくて、いつもより早く下校した。そして途中から、僕はいつものように頼子と一緒に帰った。

帰り道の途中にある駄菓子屋の前で「ちょっと待ってて」と言って頼子は中に入っていった。1分もしないうちに出てきて「これあげる」と言って差し出した右手には、僕たちが小学校の遠足の時には必ず買っていたチョコレート菓子がひとつ握られていた。

噂によると、頼子と菊田は3年生の5月まで続いたらしい。

 

 

あれは高校3年生だった。

センター試験の受験願書について学年説明会が開かれて、いよいよ受験シーズンに入ろうかという9月末のことだった。

 

「ねぇねぇ。東くんと江美ちゃん別れたってホント?」

「何だよ、急に。ほんとだけど?」

「そうなんだ。なんでなんで?」

「俺に聞くなよ。ほんと、なんだよいきなり」

河村友恵はいきなり僕の机にやってきていきなり尋ねてきた。

河村とは2、3年と同じクラスで、けっこう仲は良かった。積極的に話しかけることはないけど、同じ班になると嬉しい女の子のひとりだった。

僕は2年生の終わりに、同じクラスだった玉田江美と付き合い始めたけど、9月始め、新学期が始まってすぐに別れを切り出された。受験勉強を理由にしていたけど、単に僕に興味がなくなっただけだと思う。それぐらい態度でわかる。

今さらそんなところで気を使わなくてもいいのに、別れを切り出されたことよりも本心を語ってくれなかったことのほうに僕は傷ついていた。

 

「ふーん。でも意外だわ。けっこうお似合いに見えてたし。仲悪そうでもなかったじゃない?」

「うるせぇな。あとにしようぜ、その話。いま俺のやってることわかる? 勉強だよ。お、べ、ん、きょ、う。河村もしなくていいのか? 来週模試だぞ」

「あー、いいのいいの。わたし推薦だから」

「だからって俺の邪魔すんなよ」

思わず苦笑してしまう。本気で怒らないのはつまり、僕だってまだそれほど本気で受験態勢に入っているわけではないということだ。

「なんの教科してんの?」

「物理。この問題わかんねぇんだよ。いっつもこのパターンの問題解けなくてさぁ」

「どれどれ、見せてみ? あぁ、これね。私も苦手だった。苦手だったからさ」

えーと、たしか、と言いながら、河村は自分のカバンの中をごそごそ探した。

「あった。自分でノートにまとめたんだー。へっへー」

「うわ、おまえ、すげぇじゃん。参考書みたいにしてある!」

「まぁ、参考書を写して少し手を加えただけだけどね。貸してあげてもいいよ」

鼻の下を指でこすりながら、河村はおどけてみせた。

「おうおう、写させてもらうぜ。今パパッとやっちゃうわ」

どうぞどうぞ、と言って、河村は窓の外を見た。

今日は雨が降っている。9月といっても残暑が厳しく、僕らの制服はまだ夏服だったけど、今日明日あさってと降り続く雨が気温を下げ、秋ももうすぐそこだと昨日の天気予報が言っていた。

 

「雨だなー」

僕は河村のノートを写しながら言った。

「そうだねー」

河村は外を見たままぼんやり答える。

教室には冷房がかかっていて、締め切った窓を雨がたたく音とエアコンが風を送る鈍い音だけが教室を包んでいる。

「私さ」

「うん?」

「雨が窓をたたく音聞いてると、自分が守られてるなーって感じるんだよね」

「へー、そうなんだ」

「外にいたらきっとずぶ濡れなのに、そうならずに乾いたままでいられるなんて、すごいことだなぁって思うの」

「ふーん」

「隣には東くんもいるし。守られてるなーって」

「は?」

僕は思わず書く手を止めた。河村がまとめたそのノートのページは、見かけよりもさらに細かくきちんとまとめられている代物で、なかなか写しきれそうになかった。

「心配しないで。もう教室には誰もいないから」

「うん。別に。心配はしてねぇけど」

「去年さ、私が自転車置き場で自転車倒しちゃって、私も一緒に転んじゃったの覚えてる?」

「あー、なんかあったな、そんなこと。去年の今頃じゃなかった?」

「そうそう。制服は秋服だったけど。あのときさ、東くんが自転車立てるの手伝ってくれたじゃない? それでね、おい河村、大丈夫か? って言って私が立ち上がるのに手を貸してくれたの」

「あ、そうだっけ。よく覚えてるな。なんだよ急に」

「うれしかったからさ、あのとき。クラスで普通に話してたりする間柄で、でも私が自転車倒しちゃって転んだときには普通に心配してくれるんだなぁって」

「いや、そりゃそうだろ。女子が倒れてたらそれぐらいするよ」

少し嘘だった。自転車を起こすところまでは平常心だった。河村に声を掛けるところも、まぁ普通だった。でも、手を差し伸べるには自分の心で自分の背中をポンと押さなければならなかった。

 

「なんだよ、それだけかよ。そんなことで喜ぶなよ」

僕は笑ってみせたけど、何に笑っているのか、そもそも今笑っていいのかもよくわからなかった。

「それだけだよ。でも、それだけがうれしいんだよ」

僕は何と言えばいいのかわからなくて、でも笑い続けるのも不自然で、「そう」としか言えなかった。

「男の人って、それだけのことを言ってくれなかったり、してくれなかったりするじゃない」

僕は僕自身が男だからそのことはよくわからないけど、あるいはそれは河村が1年生のときに付き合っていた彼氏のことが関係しているのかもしれなかった。熱烈に河村にアタックした同じ学年の誰かは見事に恋心を実らせ、しかし数ヶ月もしないうちに河村にものすごい嫌われ方をして別れを告げられた。嫌われ方のすさまじさに、学年中でその原因についていろいろな噂が立っていた。

 

「告白だとか思わないでね。わかってる、無理だから。もう受験だもん」

河村は普段あまり見せないような顔をしたが、すぐに気を取り直して言った。

「ほら、ちゃっちゃと写しちゃってよ。雨の日は歩きだから家に帰るのに時間がかかるんだから」

 

僕はその日、河村を家まで送っていった。僕と河村の家は方角が違うし、そんなことを言って僕の誘いを一度ぐらいは断るそぶりを見せるかなと思ったけど、思いのほか「ありがと」と言って一緒に並んで歩いた。

僕は右側を歩いた。河村は左側を歩いた。

僕は右手で傘を持って左手でカバンを持った。河村は左手で傘を持って左肩にカバンを掛けた。

雨粒が傘を叩く音に邪魔されて、僕らは黙って歩いた。

僕のすぐ横で、水たまりをはねないように自動車が速度を落とした。

途中で、江美が他のクラスの男と並んで歩いているのを見つけた。僕の家の方向でも、江美の家の方向でもなかった。

河村は僕の左手首を握った。

僕らは黙って歩いた。僕は黙ったまま河村を家まで送って、河村は黙ったまま僕の左手首を握り続けた。

 

 

 

「で、どうなの? やっぱり嘘だったでしょ? 白状しちゃいなさいよ」

「いや、そんなことなかった。やっぱり、今まで出会った女性の中で君のことが一番好きだよ」

「ホントにぃ? ひとりやふたりぐらいは今の私よりも強い気持ちで想ってた人がいると思うけどなぁ。だって、それによ。この歳になって好きな女に想いを伝えるのに河川敷なんて場所選ぶ?」

河川敷では地元の少年サッカーチームが練習をしていた。大人のコーチが指示をする声と、子ども達がボールを追いかける甲高い声が夕暮れに響く。

 

「そんなに疑うならいいよ。じゃあ、少しは嘘をついたのかもしれない。なんなら、僕の言うこと全部がデタラメなのかもしれない。それでもいいよ。でも、嘘が作った綻びのぶんだけ、ううん、それ以上の数、僕と君で本当を紡いでいきたいんだよ。そう思ってる。それは大変な作業だ。時間がかかる。ひとつの本当を紡ぐために百の嘘をつかないといけないかもしれない。でも、君と一緒ならそれでもかまわない。君が隣にいてくれるのならね。だから、百歩譲って僕が今言ったことが今は嘘だとしても、いつかの未来にきっと本当になる」

 

彼女は「ふーん」と鼻で言って、僕の手をつないだ。

「まぁまぁ、そう怒らないの。ありがとう、うれしいわ」

 

僕らは堤防を並んで歩いた。僕は彼女の右側を歩いて、彼女は僕の左側を歩いた。

後ろから、どこかの野球部が掛け声を掛けながら僕らを走って追い越していった。

どこからかリコーダーの練習をしている音が聞こえた。同じところを何度も何度も間違えては吹きなおしていた。

堤防には2台の自転車が止まっていて、河川敷のベンチに制服を着た男女が座っていた。ふたりは一冊の参考書を広げて問題を出しあっていた。

 

夕日は赤々と僕らを照らした。僕を照らし、彼女を照らし、野球部も少年サッカーチームも受験生カップルも照らした。

「夕焼け、きれいね」

「河川敷だからだよ」

そのとき、リコーダーが一曲通してきれいに吹き終えることに成功した。
「あ、リコーダーの子、うまくいったみたいね」

僕は何も言わず、さっきよりも強く彼女の手を握りなおした。