月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

今宵、月が見えずとも

「ごめんな」と言われた。幸せにできなくて、と。

別れ話をした帰りの電車は、どこか舞台めいて見える。人もまばらな23時の電車に、わたしは一番不幸な役を演じるのだろうか。虚ろな目でスマホの画面を追っているわたしの斜め前のサラリーマンは、こんな風に悲しくてみじめな思いをしたことがあるのだろうか。そう言うわたしの、光を失った瞳の先には、電車が曲がるたびに同じ方向に同じ角度だけ揺れるつり革の列が映っている。整列し、誰にもつかまられることのないつり革は、唐突に与えられた自由に困惑し、孤独になっているように見えた。

電車が線路の連結部を通過する振動音以外に何も聞こえない静かな車内に、次の駅を知らせる鼻にかかったアナウンスが響く。ブレーキ音。ドアが開く音。新たな世界の始まりみたいだ。だけど、本当は何も始まらない。終わりもしない、何も変わりはしない。

車内に一組のカップルが入ってきた。ふたりはわたしの視界ギリギリのところに座り、ひとつのイヤホンで何か音楽を聞きながら手をつないでいる。負けた気はしないけれど、「わたしには資格がない」と思った。
だから窓の外に視線を移した。そこには何も見えない。闇さえも。ただ目を背けたかったはずの、煌々と照らされた車内が反射して見えた。別れたくない理由を探すたびに別れなくてはいけない理由が見つかってしまったわたしたちみたいだ。いや、今はもう、「わたしたち」と括ることさえできない。

子どもの名前はルナがいい。そう思っていた。彼の不器用で青白い笑顔のように、闇に浮かび闇を愛したわたしたちのように。そう、月のように。

いくつの駅に停まっただろう。こんな夜には、星も月も微笑んではくれない。「あなたが選んだ道だから」沈黙を決め込んだ夜空がそう言い聞かせてくる。わたしは目を閉じて、わたしのための闇に生きようとする。彼らの世界に微笑まなかった月は、わたしの闇に、たしかに在った。

Love, too Death, too

「世界中の富を集中させた1930年代のアメリカに、こんな牧歌的な風景が広がっているとはね」と、イギリスからやってくる彼女の親族がよく言ったものだ。

一面に広がる草原の中で、数頭の馬と羊が草を食み、チチチと鳥が鳴き交わす声以外には、シロツメクサを揺らす風の音しか聞こえないオクラホマのこの家では、エリーとその母が暮らしている。
25歳になったエリーは誕生日に、それまで貯めてきたお金を使い、馬車を雇って街へ出かけ、自分専用の机と椅子を買ってきた。彼女はそこで本を読み、ものを書き、編み物をすることができる。
白髪の、年齢のわからない老人から買ってきた、いつ作られたのかわからないような年代物の机を、エリーは家に帰ってから隅々まで拭いていく。その古ぼけた机には、へこみやインク跡がついており、ひとつだけついている引き出しには、かつて鍵がついていたであろう痕跡が疵になって残っていた。その引き出しを開けて中まで丁寧に拭いていると、一片の紙がエリーの手に触った。

書庫のようなにおいのする、黄ばんでちぎれた紙片には、所々かすれて読めない黒インクの、男の子が書いたような筆跡で、次のような文字が読めた。

 

Expi*t* your l*ve by **ur de*th

All *ou ********** embrace

Love, to* Death, t*o

 

午後の陽が陰り、少し薄暗くなった手元の紙片をじっと見つめながら、この詩を書いたであろう少年を想像する。茶色い巻き毛の、碧い瞳と真っ赤な唇が美しい少年。ひとりの少女に恋をし、その恋に破れた少年。張り裂けそうな想いを抱え、その全てを一本のペンに託した少年。

エリーは彼を、滑稽だとは思わない。擦り切れたその紙と文字に、彼の記憶が今も残っている気がするから。引き出しの中に隠し続けた彼の秘密に、彼の存在理由が宿っている気がするから。

紙片を引き出しの中に戻し、机の前に椅子を据えて夕げの支度に取り掛かりはじめたエリーは、引き出しの裏に小さく細く、Dear Ellieと刻まれていることをまだ知らない。

ギフト

この時期は本当に忙しい。店内にはオルゴールのクリスマスソングが流れ、フロアのあちこちにクリスマスツリーが飾り付けられるこのシーズン。はじめの数日は新鮮味があって少し気持ちが浮き立ったサンタ帽も、何週間もつけていると飽き飽きしてくる。心なしか、先端のポンポンもげんなりしたように、フニャリと折れてくる。

レジには様々なプレゼント用品がやってくる。買物カゴを携え、あるいは箱を抱えてやってくる大人たちは、私にとっては見知らぬ無名の人々にすぎないが、ひとりひとりが誰かの大切なサンタさんなのだ。そんなことを考えては、昔とすっかり様変わりしたおもちゃやゲーム機に時折驚きつつ、プレゼントを丁寧かつ迅速にラッピングしていく。新人時代、まさにクリスマスシーズンにラッピングのコツを掴み、その速度が急激に上がった。自身のうちに眠るなけなしの学習能力を頼みにしないことには、到底捌ききれないお客様の数。ネット通販の普及により、百貨店でのクリスマスプレゼントの売り上げが落ちているのは事実だが、それでもやはり忙しい。

包装紙を敷き、箱を置き、順序に沿ってテンポよく、きっちりと折り目をつけながらラッピングしていき、最後に赤いリボンの「Merry Christmas」シール。子どものときは、シールに何が書かれているかなんてわからなかったし、そもそも読もうともしなかった。朝起きたとき、枕元にそっと置いてあるウキウキした包装紙が嬉しくて、その中に何が入っているのか楽しみで、あっという間に破いてしまっていたから。もらうものが変わり、遊ぶ場所が変わったとしても、それは今でも同じなんじゃないかな。

そう、たしかにクリスマスの半分は、大人の自己満足かもしれない。こんなに丁寧に折り目をつけて包装しなくても、君は気にしないかもしれないね。でもね、顔も名前も知らない君の幸せを願う私の気持ちは、こんなところにしか表せられないんだよ。

痛い立ち位置

金の万年筆を片手に、金縁の眼鏡をかけた水田社長は、社長室で全盛期比40%の頭髪を撫でながら「参ったな」と呟いた。そこに軽やかなノックの音が聞こえ、横田秘書が部屋へ入ってきた。

「失礼します、社長。先月我が社がリリースいたしました新車種についてですが」とタブレットを操作しながら横田は近づいてくる。「こちらがアンケート結果です。認知度が非常に高く、購入希望者率は他社と比較いたしましても飛びぬけております。車のスペックにおける魅力はもちろん、広告戦略も功を奏したのでしょう」と横田の機嫌は上々である。

「それはよかった。太陽光と水素燃料のハイブリッド車を実用化させたのは我が社が初めてだし、消費者層からすれば燃料費の削減がもっとも魅力的だろう」と水田は頷いてみせる。しかしその目は横田には向けられず、150m下を行き交う人や車の列をぼんやりと眺めている。水田は今、それどころではない。

たしかに、我が社の車の出来は素晴らしい。技術革新を世界に先駆け率先して進め、デザインや乗り心地の向上、遊び心も忘れない。国、いや産業を代表するにふさわしいパフォーマンスであると、社員にも製品にも、水田は誇りを持っている。

しかし、だ。先日スバルが発表したニューモデル。技術レベルこそ我が社には及ばないが、クルマのかっこよさを人の心に訴えかけるあのデザインはなんなのだろう。あれはかっこいい。あれが欲しい。あれに乗りたい。水田は、おもちゃ売り場を前にした子どものような衝動に駆られている。そして、車の一台ぐらい何のためらいもなく購入できる経済力がある分、水田の心は余計にざわめいている。

無論、社長として、他社の車、ましてやニューモデルに喜々として飛びつくことなど許されない。しかし、あの車に乗りたいという素直な気持ちを無視するのも忍びない。

「参ったな」ともう一度呟く水田の脳裏には、上機嫌な横田の横顔が映し出されている。

あなたがここにいたら

「ねえ、もう少しだけ話してもいい?」と彼女は言った。「もう少しだけ声が聞きたいから」そう言いながら、彼女の声は少し眠そうだった。もちろんいいよ、と僕は答えた。それから「でも声が眠そうだけど。明日というか今日の朝も早いんだろ?」と付け足した。ご名答、と彼女はささやくように言った。それからこう続けた。

 

―今日ね、朝から雨だったの。水たまりがあるってわかってるはずなのに、何台かの車がケヤキ通りをバシャーって走っていって、すごく腹が立った。寒かったからラーメン食べたんだけど、久しぶりに塩ラーメンもおいしいなって思った・・・。

彼女の話は大体理解できたけど、少しだけ脈絡がなかったから、僕は所々質問をしながら話を聞いていた。そう、学校行くときにケヤキ通り通るから。学校の食堂で、いつも醤油ラーメン食べてたから、たまには塩もいいかなと思って・・・。こんな感じで。

それでね、と彼女は話しつづけた。こんなに眠そうなのに、僕の声を聞きたいといっていたのに、話し続けなくてはいけない理由があるのだろうか。

「夕方には雨が上がって、夜にはすごく綺麗な月が出たの。三日月。あなたと一緒に見たいと思ったわ」そう言った彼女の気持ちを、僕はすごくよくわかると思った。

 

あなたがここにいたら。最近よくそう思うの。

と彼女は言った。僕は何か答えるべきだ。何か優しいことを。わかっているのに、言葉が出ない。君に寄り添う言葉。だけど、きれいごとは言いたくない。

優しくないのね、と時々言われる。そうかもしれない。そんなつもりはないけど、きっとそうなのだろうと思うときがある。君に正直でいたい気持ちが、僕の優しさを隠す。いや、最初から僕は優しくないのか。

僕は、錯綜する言葉たちの中に立ち尽くしていた。彼女は小さく、「おやすみ」と言った。

かの文豪は、どうしてI love youを「月が綺麗ですね」と訳したのだろう。

リンク

僕はパソコンを開いて待つ。もうすぐ時間だ。外では聞きなれない声の鳥が、えさを啄ばんでいるのか、せわしく鳴いている。

静かな着信音。僕は受話器のアイコンをクリックして通話に出る。

「もしもーし」ややあって、彼女の声が聞こえてきた。ネット通話のイヤホン越しに聞く彼女の声は、少しだけざらざらしている。

「時間ぴったりだね」と僕は言う。たぶん彼女も、15分ぐらい前からパソコンを立ち上げて待っていたのではないだろうか。「へへーまあね」という彼女の声の後に、ネット通話特有の「空白」という音が聞こえてくる。僕はその音越しに、彼女がモジモジソワソワしていることを感じとる。僕は彼女がいま、どんな部屋の中の一部に取り込まれていて、傍らに何があり、どんな風な面持ちで落ち着かない様子なのか、なんとなく想像できる。彼女の住み慣れた部屋、僕が何度も訪ねた場所。

 

「元気?」で始まった僕たちの会話は少しずつ、いつもの調子を取り戻していった。異国で暮らす僕に、彼女の声と日本語は優しく響く。

「ごめん、何て言ったの?」どちらも時々聞き返す。その度に、数秒、あるいは数十秒前から話していたことを繰り返す。進んでは戻り、また進み、少しだけ戻る。僕たちみたいだと思う。大切なのは、進んでいるということだ。大切なのは、相手の声を聞けるのが嬉しいということで、相手に声を届けたいということだ。

 

「海底ケーブルを伝って、俺の好きだよってことばを運んでくれるなんてすごいことだよな」
「ごめん、何を運ぶって?」
ほら、進んでは戻る。
「いや、だから、俺の大好きだよってことばだよ」
「さっきは好き、だったのに、大好きに変えてくれたんだね」と彼女は楽しそうに言う。

まったく、こんなに彼女のことが好きなのに、もうすぐ電話を切らなくてはいけないのだ。正午の太陽に照らされた部屋の中で僕は、いま日本は深夜で、彼女は明日の朝からバイトがあることを知っている。

Winding Road

茫漠とした砂漠を思わせる国際線のターミナルには、まだそれほど多くの人はいないようだった。

「パスポート持った?航空券も、大丈夫?」僕の右手を握った彼女が問いかける。薄茶色の混じったミドルの髪。左頬にある3mmほどのホクロ。

「大丈夫、完璧」パスポートを忘れて出国が遅れるなんてことになったら、留学先の先生に笑われる。そんなことを考えながら僕は答えた。彼女の左手は、僕の右手よりも少しだけ冷たい。「心が温かいからよ」。彼女はいつも、そんなつまらない冗談を言っては、僕をホッとさせてくれる。いつの間にか近くにあった彼女との日常に起きる一年の空白。僕らはそして、どうなるのだろう。

僕らはゆっくり、まっすぐに保安検査場へ歩いていく。

「緊張する?」と彼女が言った。「わたしは少し緊張してる」と言った。

僕は彼女の声が好きだから、もっと話してくれればいいのにと思った。このまま黙っていれば、君の声を聞けるだろうか。

 

高校の修学旅行、そのバスの中で彼女に出会った。蛇行した山道にすっかり酔ってしまった僕を、通路を挟んで隣にいた彼女が介抱してくれたのだ。

「少し気になってたから、チャンスだと思ったのよ」彼女に後から聞いた話だ。僕の気がまぎれ、体調が良くなるように気遣ってくれた。永遠を感じる山道に揺られながら、僕は彼女の声を好きだと思った。

 

「緊張はしてないけど、少し寂しいかな」そう言って僕は、彼女の足下を見た。ネイビーのパンプスは、空港のツルツルした床を丁寧に歩いている。

「わたしも」彼女は手短にそう言った。僕は彼女の声が聞きたいのに。

「俺が修学旅行のバスで酔ってふらふらだったとき話してくれた話、もう一回してくれない?」と僕は尋ねた。彼女は久しぶりにこっちを見て、懐かしいわね、という顔をした。そして、

「いいよ」と言った。そして、

「その前にキスしていい?」と言った。

 

上空1万メートル。あれはもう10時間も前のことだ。