月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

瞳の奥をのぞかせて

今は夜です。貴方は仕事が終わった頃かもしれない。お疲れさま。

あの日、貴方が眠ったあと、貴方の背中に文字を書いていました。ネイルをしていなかったことに気付いてくれなかった私の指で。きっと、私がいつも貴方の後に眠りについていたことも知らないのでしょうね。

これだけの時間を過ごしてきて、貴方をわかったと感じたことは一度もなかった。貴方の傍にいたいのに、貴方がいると安心するのに、貴方の隣ではじめて私は私でいられるのに。
あなたはどうだっただろうと考える。そのたび、貴方はきっと、私のことをよくわかってくれていたと思う。私の好きなこと、好きではないこと。楽しいことと楽しくないこと。嬉しいこと、気持ちいいこと。ぜんぶお見通し。不機嫌になれば、すぐに私を笑わせてくれるから、私はとても嬉しくなって、家に帰っていつもひとりで泣いていたの。

貴方が隣で何を見ているのか、私はいつも知りたかった。私のいちばん傍にいる貴方を、私がわかりたかった。貴方が私をわかってくれているように。だけど、私と貴方が同じ景色を共有していたことは一度もなかったような気がする。
貴方に見つめられても、見つめられているのは私ではなくて、私のもっと奥の、私も知らない部分なのではないかと、私の知らない私を知っている貴方がときどき、とても怖くなった。

私は貴方に、どう映っていたの。私と、私と過ごした日々と、私と貴方の思い出と、あなたは忘れないでいてくれますか。

私は貴方の笑顔を忘れません。貴方が贈ってくれた薔薇の色を忘れません。貴方と過ごした時間の全てを忘れません。

だから、さようなら。

 

彼女は、真っ白な便せんに青いインクで綴ったこの手紙をていねいに読み直し、最後の行まで読み終えると、ゆっくり引き裂いて、それからそっと、パチパチと音をたてて燃える暖炉の火にくべた。手紙は女の涙のように、ホロリホロリと焼け崩れていった。