月夜の留守番電話

外国旅行記と小説。

君は100%

摘むのは老爺の、選り分けるのは老婆の、食べるのは幼子の役目。それがバレンシアの掟、オレンジ農家の伝統。世界でいちばん青くて高い空の下、その丘の上で、何十年も前の初恋を今に連れて来た風に吹かれ、鼻歌交じりの老爺は脚立にのぼり、ひとつひとつ丁寧にオレンジを摘んでいく。下には、その風が連れて来た彼女―老婆が座っている。老婆は、旦那の次に長く連れ添っている手作りのイスに腰掛け、老爺が摘んだオレンジを三つのカゴに選り分けていく。ひとつはそのまま市場に並べるもの、ひとつは加糖オレンジジュースの一部となるべくプレスされるもの、もうひとつは果汁100%ジュースになるべくプレスされるもの。

見た目のきれいなオレンジが市場に並び、それ以外のものが適当に選り分けられるわけではない。バレンシアの目利きたちは、食べておいしいオレンジと、果汁30%ジュースにしておいしいオレンジと、果汁100%ジュースにしてこそおいしいオレンジをちゃんと知っている。いわんや農家をや、だ。

老婆は要領よくオレンジを仕分けていく。時々オレンジの声も聞こえてくる。市場に並びたいだとか、100%のほうがいいだとか。オレンジたちの声を聞いて考え直すこともあれば、その声を黙殺し、そのまま仕分けに取り組み続けるときもある。
前傾姿勢でオレンジを選り分け続けるのは楽な仕事ではない。だから、しばしば立ち上がり、ポマードで髪を固めたいつかの彼と、街で一番目立つ口紅を塗ったいつかの自分が手をつないで歩いたときのことを、深呼吸とともに思い出す。

妙に静かになった下の様子に気付いた老爺は「おいおい、サボらんでくれよ」とウインクを飛ばす。
「サボってなんかないわ」と彼だけのためのウインク。このウインクが、ふたりをここまで繋いできた。彼らは何も変わってはいない。ただ世界が変わっただけだ。

バレンシアは今日も暑く、そしてオレンジはどこまでも瑞々しい。

 

瞳の奥をのぞかせて

今は夜です。貴方は仕事が終わった頃かもしれない。お疲れさま。

あの日、貴方が眠ったあと、貴方の背中に文字を書いていました。ネイルをしていなかったことに気付いてくれなかった私の指で。きっと、私がいつも貴方の後に眠りについていたことも知らないのでしょうね。

これだけの時間を過ごしてきて、貴方をわかったと感じたことは一度もなかった。貴方の傍にいたいのに、貴方がいると安心するのに、貴方の隣ではじめて私は私でいられるのに。
あなたはどうだっただろうと考える。そのたび、貴方はきっと、私のことをよくわかってくれていたと思う。私の好きなこと、好きではないこと。楽しいことと楽しくないこと。嬉しいこと、気持ちいいこと。ぜんぶお見通し。不機嫌になれば、すぐに私を笑わせてくれるから、私はとても嬉しくなって、家に帰っていつもひとりで泣いていたの。

貴方が隣で何を見ているのか、私はいつも知りたかった。私のいちばん傍にいる貴方を、私がわかりたかった。貴方が私をわかってくれているように。だけど、私と貴方が同じ景色を共有していたことは一度もなかったような気がする。
貴方に見つめられても、見つめられているのは私ではなくて、私のもっと奥の、私も知らない部分なのではないかと、私の知らない私を知っている貴方がときどき、とても怖くなった。

私は貴方に、どう映っていたの。私と、私と過ごした日々と、私と貴方の思い出と、あなたは忘れないでいてくれますか。

私は貴方の笑顔を忘れません。貴方が贈ってくれた薔薇の色を忘れません。貴方と過ごした時間の全てを忘れません。

だから、さようなら。

 

彼女は、真っ白な便せんに青いインクで綴ったこの手紙をていねいに読み直し、最後の行まで読み終えると、ゆっくり引き裂いて、それからそっと、パチパチと音をたてて燃える暖炉の火にくべた。手紙は女の涙のように、ホロリホロリと焼け崩れていった。

アニマロッサ

毎年この時期は、SNSがざわめき、テレビ画面が色めく。去年、部活の先輩たちが派手な着物やドレスの格好の写真をSNSに大量にアップし、ハタチになったことの感想や意気込みや、親への感謝をつづっていたことには少し閉口したし、ニュース映像に映されるどこかの荒れた成人式の様子には、この国の終わりを感じたものだけど、それでも実際に自分がハタチを迎えるとなると、少し感慨深い。「こんな大人に、あんな人になりたい」という思いがこみ上げてくる。わたしは文字が苦手だし、なんとなくの感覚でしかないけれど。

姿見に映る、真っ赤なドレスを着たわたしの姿。がんばって2キロやせたおかげで、2ヶ月前よりも、ドレスのシルエットが美しくわたしの体を形どってくれる。これは大切なドレス。祖母、母、私と受け継がれてきた、アニマロッサという名のドレスだ。
イタリア語で「赤い魂」という意味だと教えてくれた祖母が、かつてわたしほどの年齢だったときにそのドレスを着た写真にも艶やかさがあったが、本物を目の前にし、そして手にしたときに、その色味、質感、徹底的に普遍の美を追及してつくられたそのシルエットに息を呑んだ。わたしにとって、何十年と手入れされ、受け継がれ、ひとりの女性の美を引き出すために存在し続けてきたこのドレスを着るということが、成人になる自分への責任だった。このドレスを着ることの重みと比べれば、市長の話や友人の改まった決意表明や、テレビの大人たちが語るわたしたちへの期待なんて、さほど重要ではなかった。

アニマロッサには、シンプルなパールのネックレスが良いと思う。彼氏も「よく似合うよ」と言って、わたしをゆっくり抱きしめてくれた。弟は、チャイナドレスのコスプレみたいだとからかってきたけれど、何となくその日は一日、落ち着きがなかった。

家の外に出ると、冷たい風がドレス越しに身に凍みた。「いってきます」は、誰に向かって言ったのだろう。

この胸を、愛を射よ

「歳をとったキューピッドはキューピッドなのか。多くの哲学者たちが挑んでは、その度に議論が紛糾してきた難問です。今回、FGN放送局では、数名のキューピッドのみなさんにお越しいただき、実際にこの問題についての所見をうかがうことに成功しました。どうぞ、番組を最後までご覧いただきながら、#fnncupidにてあなたのご意見をリアルタイ・・・」
彼はタバコを吸うためにベランダへ出た。胸ポケットからキャスターの8mmを取り出して火を点ける。そして、キューピッドねぇ、と考えながら煙を吐き出す。アパートの2階から見下ろす景色は、大して良いものではない。それでも見下ろすことに意味がある、と彼は思っている。

キューピッドがいるとしたら、俺のキューピッドはどんなヘマをやらかしたんだか。

しかし、実際にいるのだ。ベランダからテレビのある六畳間に戻ってきた彼は、すりガラス越しに、加工された声で議論を交わす5名のキューピッドを見つめる。正面からはわからないが、後ろから映された彼らの外見を見るかぎり、たしかに彼らは本物のキューピッドのようだ。彼には本物と偽者のラインなどわからないが、偽者にしては彼らはあまりにキューピッドすぎる。今映っている彼らはやはり、本物のキューピッドでなければならない。

本物のキューピッドは言う。年をとってもキューピッドであることに変わりはない。むしろ、鍛錬と経験をつんだ弓矢の技術によって、若者よりもよっぽどキューピッドらしい仕事ぶりを発揮できる、云々かんぬん。
別の本物のキューピッドは、右手の人差し指をあげて反対意見を表明する。老いぼれた姿のキューピッドなど、見るに堪えないし、そう呼びたくもない。ベテランの経験は認めるが、それならそれ相応の別の呼び名があれば良いではないか、云々かんぬん。

彼は、座卓の上に置き去りにされたいつかの指輪を見つめてからテレビを消し、タバコを買いにコンビニへ出かけた。

今宵、月が見えずとも

「ごめんな」と言われた。幸せにできなくて、と。

別れ話をした帰りの電車は、どこか舞台めいて見える。人もまばらな23時の電車に、わたしは一番不幸な役を演じるのだろうか。虚ろな目でスマホの画面を追っているわたしの斜め前のサラリーマンは、こんな風に悲しくてみじめな思いをしたことがあるのだろうか。そう言うわたしの、光を失った瞳の先には、電車が曲がるたびに同じ方向に同じ角度だけ揺れるつり革の列が映っている。整列し、誰にもつかまられることのないつり革は、唐突に与えられた自由に困惑し、孤独になっているように見えた。

電車が線路の連結部を通過する振動音以外に何も聞こえない静かな車内に、次の駅を知らせる鼻にかかったアナウンスが響く。ブレーキ音。ドアが開く音。新たな世界の始まりみたいだ。だけど、本当は何も始まらない。終わりもしない、何も変わりはしない。

車内に一組のカップルが入ってきた。ふたりはわたしの視界ギリギリのところに座り、ひとつのイヤホンで何か音楽を聞きながら手をつないでいる。負けた気はしないけれど、「わたしには資格がない」と思った。
だから窓の外に視線を移した。そこには何も見えない。闇さえも。ただ目を背けたかったはずの、煌々と照らされた車内が反射して見えた。別れたくない理由を探すたびに別れなくてはいけない理由が見つかってしまったわたしたちみたいだ。いや、今はもう、「わたしたち」と括ることさえできない。

子どもの名前はルナがいい。そう思っていた。彼の不器用で青白い笑顔のように、闇に浮かび闇を愛したわたしたちのように。そう、月のように。

いくつの駅に停まっただろう。こんな夜には、星も月も微笑んではくれない。「あなたが選んだ道だから」沈黙を決め込んだ夜空がそう言い聞かせてくる。わたしは目を閉じて、わたしのための闇に生きようとする。彼らの世界に微笑まなかった月は、わたしの闇に、たしかに在った。

Love, too Death, too

「世界中の富を集中させた1930年代のアメリカに、こんな牧歌的な風景が広がっているとはね」と、イギリスからやってくる彼女の親族がよく言ったものだ。

一面に広がる草原の中で、数頭の馬と羊が草を食み、チチチと鳥が鳴き交わす声以外には、シロツメクサを揺らす風の音しか聞こえないオクラホマのこの家では、エリーとその母が暮らしている。
25歳になったエリーは誕生日に、それまで貯めてきたお金を使い、馬車を雇って街へ出かけ、自分専用の机と椅子を買ってきた。彼女はそこで本を読み、ものを書き、編み物をすることができる。
白髪の、年齢のわからない老人から買ってきた、いつ作られたのかわからないような年代物の机を、エリーは家に帰ってから隅々まで拭いていく。その古ぼけた机には、へこみやインク跡がついており、ひとつだけついている引き出しには、かつて鍵がついていたであろう痕跡が疵になって残っていた。その引き出しを開けて中まで丁寧に拭いていると、一片の紙がエリーの手に触った。

書庫のようなにおいのする、黄ばんでちぎれた紙片には、所々かすれて読めない黒インクの、男の子が書いたような筆跡で、次のような文字が読めた。

 

Expi*t* your l*ve by **ur de*th

All *ou ********** embrace

Love, to* Death, t*o

 

午後の陽が陰り、少し薄暗くなった手元の紙片をじっと見つめながら、この詩を書いたであろう少年を想像する。茶色い巻き毛の、碧い瞳と真っ赤な唇が美しい少年。ひとりの少女に恋をし、その恋に破れた少年。張り裂けそうな想いを抱え、その全てを一本のペンに託した少年。

エリーは彼を、滑稽だとは思わない。擦り切れたその紙と文字に、彼の記憶が今も残っている気がするから。引き出しの中に隠し続けた彼の秘密に、彼の存在理由が宿っている気がするから。

紙片を引き出しの中に戻し、机の前に椅子を据えて夕げの支度に取り掛かりはじめたエリーは、引き出しの裏に小さく細く、Dear Ellieと刻まれていることをまだ知らない。

ギフト

この時期は本当に忙しい。店内にはオルゴールのクリスマスソングが流れ、フロアのあちこちにクリスマスツリーが飾り付けられるこのシーズン。はじめの数日は新鮮味があって少し気持ちが浮き立ったサンタ帽も、何週間もつけていると飽き飽きしてくる。心なしか、先端のポンポンもげんなりしたように、フニャリと折れてくる。

レジには様々なプレゼント用品がやってくる。買物カゴを携え、あるいは箱を抱えてやってくる大人たちは、私にとっては見知らぬ無名の人々にすぎないが、ひとりひとりが誰かの大切なサンタさんなのだ。そんなことを考えては、昔とすっかり様変わりしたおもちゃやゲーム機に時折驚きつつ、プレゼントを丁寧かつ迅速にラッピングしていく。新人時代、まさにクリスマスシーズンにラッピングのコツを掴み、その速度が急激に上がった。自身のうちに眠るなけなしの学習能力を頼みにしないことには、到底捌ききれないお客様の数。ネット通販の普及により、百貨店でのクリスマスプレゼントの売り上げが落ちているのは事実だが、それでもやはり忙しい。

包装紙を敷き、箱を置き、順序に沿ってテンポよく、きっちりと折り目をつけながらラッピングしていき、最後に赤いリボンの「Merry Christmas」シール。子どものときは、シールに何が書かれているかなんてわからなかったし、そもそも読もうともしなかった。朝起きたとき、枕元にそっと置いてあるウキウキした包装紙が嬉しくて、その中に何が入っているのか楽しみで、あっという間に破いてしまっていたから。もらうものが変わり、遊ぶ場所が変わったとしても、それは今でも同じなんじゃないかな。

そう、たしかにクリスマスの半分は、大人の自己満足かもしれない。こんなに丁寧に折り目をつけて包装しなくても、君は気にしないかもしれないね。でもね、顔も名前も知らない君の幸せを願う私の気持ちは、こんなところにしか表せられないんだよ。